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日本人のルーツと呼べる存在、縄文人。「争いのない時代が1万年以上続いた」「現代に匹敵する、それ以上の豊かな文明があった」——現代人の縄文文化への関心は深く、その暮らし、価値観についてさまざまな解釈がなされてきた。1万〜数千年以上前と聞くと太古の時代のようだが、彼らが残した足跡、とりわけ土器などの出土品を前にすれば、その息吹を身近に感じることができる。

2025年5月から12月にかけて、長野県塩尻市にある床尾中央遺跡で発掘調査が行われ、大量の縄文土器や土偶、石棒、釣手土器が出土した。発表当時、出土した土器の写真を見て驚いた。作者の手の跡が残るような保存状態。象徴的なモティーフが有機的に絡み合う模様。躍動感ある形状。現代まで、このように見事な土器が地中に眠っていたことに驚かされるとともに、縄文期を生きた人々の創造の力に魅了された。
出土した数々の土器は、現在、遺跡近くに位置する塩尻市立平出博物館にて5月24日(日)まで開催中の企画展「掘ったら出た! ~床尾中央遺跡発掘速報展~」で観ることができる。本展は大変好評で、3月までだった会期が5月まで延長された。
なぜ今、これほどの土器が出土したのか。当時の人々はどのような思いで土器を作り、生活していたのか。塩尻市立平出博物館を訪ね、館長・小松学氏にお話を伺った。

(楡 美砂)

7カ月かけて約20人で発掘調査。土器、土偶が大量出土

床尾中央遺跡

——この度の発掘調査ではどのようなものが発見されたのでしょうか。
「今回、約4700㎡の範囲を発掘調査しました。縄文時代の家が41軒見つかり、古墳時代前期、4世紀前半の頃の家が16軒、そして11世紀〜 12世紀くらいの家が17軒という、複合遺跡となっています。出土した物を判別して時期を把握できます。
場所は、博物館前の道路を左側に約1km進んだエリアです。長らく未開拓の場所で、元は果樹園でした。住宅団地の分譲で造成工事、区画割をするにあたって調査が始まりました。ここは元々遺跡があるとわかっていた場所なんです。平成6年(1994)に歩道部分を拡幅する際に調査し、幅1〜2mの狭い範囲から23軒の住居跡がすでに見つかっていました。ですから、間違いなく『出る』とわかっていました」

上空から見た床尾中央遺跡
調査地域は大規模集落の一部と考えられている

「昨年の5月から12月まで、私もほぼ毎日、発掘調査に行きました。大変でしたね。季節のいい時期から暑い時期、冬まで。元々発掘に携わってくれた人と、新しく10人ほど加わり約20人で。大部分の人は今回初めて応募してくれた方です。初めての人は、黒曜石や土器の破片がちょっと出ただけでも、最初は本当に喜ばれて『嬉しい、こんなものが』となります。ですが、ものすごくたくさん出てくるので、そのうちだんだん、『また出たか』くらいに慣れていきます(笑)。そしたら今度は、よく出てくるものじゃなくて、土偶とか、『普通でないものを見つけたい』という気持ちになっていきます。そうすると、やっぱり出てくるんですよね。今回も土偶が50点近く出ました。面白いことに、やっぱり当たる人はいて、いいものを見つけるんですよね」

発掘調査の様子

出土した土偶

——どのくらい掘ると出てくるんですか。
「20cmから30cmで出てきます。少し掘ると、家の跡が出てくる。この辺りは土地の高さがそこまで変わっていません。縄文時代、古墳時代、平安時代も同じくらいの高さから出てきます。生活をしていた高さがほとんど変わってないんですよね。
だから、畑を耕しているだけで、どんどん出てくる。ここは果樹園として利用されていたんです。戦後になると大型機械を使って深い耕作をするから、20cmや30cm下に埋まっているものは壊されることもありますが、果樹園だったので深い耕作がされず、土器が地下に残っていました。今回調査をした時、最初に機械で表土を剥いでいくんですが、その時点で15cm、20cmの深さから、こんなに大きい土器が出てくるんですよ」

「塩尻辺りはこういうことが多いです。もっと深く掘って見つかることもありますが、この辺りは、縄文時代の頃から関東ローム層と呼ばれる赤土の上で生活しているので、赤土が出てきたら、それが目安になります。
出土する深さは地域によりますね。例えば大きな川の周辺は、川の氾濫などで土砂が堆積して厚みが増し、深い遺跡では1m、2m掘って出土することもあります。ここでは土砂崩れが全く確認されていませんし、少しずつ積もったものが20cm、30cmほどになっていると考えられます。だから、こうして今発掘できたのは運も良かったんでしょうね」

小松学館長

唐草文、綾杉文があしらわれた芸術的土器

——今回出土した土器にはどのような特徴がありましたか。
「やっぱり縄文時代も、今のファッションと一緒で流行があるんですね。塩尻の辺りは、縄文時代の中期後半に唐草文様が大流行しました。長野県の中でも、松本、伊那を中心にこの唐草がすごく流行ったんです。
ただ不思議と、他の地域に行っても、同じ時期には大体似た土器が見つかります。いろいろな地域の特徴が混ざりながら、地域ごとの特色が生まれていったんだと思います。唐草文も、東北地方に渦を巻いたような模様で大木式土器という種類があるので、その影響も受けていそうです。長野県辺りと関東地方で出る土器も、似ているけどちょっと違う。渦は多用していないけれども、全体的に見ると同じ系統の模様が付いている。やっぱりどう見ても流行としか考えられないところがあります。

土器の模様に物語性を考える人も当然います。例えばアイヌ地域を研究している方が来て、こういう唐草文は、『土器の中の物を守る結界を表しているんじゃないか』と話していました。ただ、なかなかこれを見て、何を表しているか、現代人が語るのは難しいですね。想像はできますが」

唐草文、綾杉文が細部まで丁寧に施された土器

まじまじと土器を見ていると、類似した模様でも、線の流れや風合いが異なるものが見られる。小松館長は「土器にも個性があって、作った人の性格や、思いが乗る」と語る。

「作り手の美意識を感じさせるものもあります。例えばこの土器なんかは圧倒的です。ものすごく丁寧できれい。絶対に手を抜かず、かなりの時間と労力をかけて作られたと思います。土器研究をしている人も『これはすごい』と言っていますね。『この土器1点だけ、全く他の土器と違うよ』『こんな土器は想像ができない』と」

発見当時の様子

「縄文人の芸術性は高いと思いますね。この感性はどこから出てくるのか。当然生活の中から出てくるんでしょうけれど。例えばこういう渦巻きなんかは、水の流れというイメージから来ているのかもしれませんし。途中で矢印のようになっているのは剣先文といって、渦巻きの中に突如として現れるんですよね。これも何かを意図しているとは思いますが、はっきりとはわからない。やっぱりこうした、縄文人の感性というのは真似できない」

渦巻きから矢印のような模様が生まれる

「一つの流行が生まれると、最初の頃にほぼ完成形の土器ができています。『こういう模様を作りましょう』と丁寧な土器を作るんですけど、それが新しくなってくると、どんどん手を抜いてくるんですよね。例えば、初めはこういう粘土紐を貼り付けて模様を付けるんですけど、そのうち貼り付けずに、全部線で直に描いちゃうんですよね。立体でなく平面形になってくる。で、この時期に限らず、一つの流行に慣れてくると、今度、次の新しい土器の流行が始まる」

粘土紐を使わずに、模様が直に描き込まれている
後ろの土器と比較すると、平面的な仕上がりになっている

土器の変遷から、一つの潮流の興りと衰退を感じ取ることができる。とはいえ、流行の衰退や時期に限らず、作り手の気質も土器の出来に影響しているようだ。

「ただこれを比べてみても時期的にはそんなに大きな差はないんですね。せいぜい数十年くらいの違いはあるかもしれないですけど、そういう時期において、これだけ丁寧なものと、手を抜いたものが出てくるという。これがもっと後になると、さらに極端になり、模様もなくなって、最終的には線だけが残る。唐草文の間に描き込まれた模様は、綾杉文と呼びます。初めは細かく描かれていたものが、最後にはなくなっていく。これが終わるとまた、完成形として新たな流行が生まれてくる」

芸術品のような土器は、小松館長もお気に入り

土器の変遷から見える各地との交流。感性の共有

——縄文人の間で感性が共有されているのでしょうか。
「感性は確実に共有されていますね。特定の地域だけでなく、同じ時期に関東、東北にも似たような流れがあります。ただ、極端に違うものもあります。例えば火焔土器は、新潟県や福島県辺りを中心に作られた、地域性が強い土器ですね。唐草文と同じ時期に作られましたが、ここには伝わっていなくて、一つも出ていません。
ただ、同じ時代の全体的な模様を見渡すと、バリエーションはありますが、系統は共通しています。当時の人たちの頭の構造はわかりませんが、全国各地との交流はさかんだったと思いますね」

塩尻で出土した西日本・東海系の土器
(左から、岡山、京都、和歌山、愛知)

「塩尻の遺跡では東北由来の土器や、西日本の岡山、京都、和歌山などで作られた土器も出ています。かなり広範囲で交流していたことがわかります。
東北地方の土器を真似したものも塩尻から出ています。それは土器そのものが来ているというより、東北の人が来てここで作っていたか、東北地方の土器を見た人が、こっちで「あの土器どうだったっけな」と真似して作っている。だから、土は地元のものを使っているけれども、土器の模様は東北地方特有のものになっていることがあります。

一番顕著にわかるのが、ヒスイですね。糸魚川(いといがわ)でしか出ないものが各地から出るということは、間違いなく人は移動している。ヒスイを運ぶだけじゃなくて、いろんな物や文化を運んでいた。黒曜石もそうですよね」

——縄文の人々はどんな感性の持ち主だったと思われますか。
「当時の人達って、生きるか死ぬかという、その日暮らしではなかったと思うんです。まず、その感覚がベースにあった。もし自分が土器を作らなきゃいけないという時に、必死で何かを作るなら、こんな模様は絶対付けないし。土器は基本、煮炊きに使われる道具ですが、煮炊きにこの模様は必要ないですよ。だから、この模様を付けるというのは流行もあるんでしょうけども、当時の人たちにとっては意味があると思う。中には、この繊細な土器のように、作品を作る感覚の人もいたと思いますよ」

多数出土した埋甕。土から当時の生活、死生観を探る

2つ並んで出土した埋甕

今回多く出土したのは、埋甕(うめがめ)と呼ばれる土器だ。用途については諸説あるが、使用時期はおおよそ定まっているという。
「縄文時代中期後半に、埋甕という風習が中部・関東地方を中心に大流行するんです。今回遺跡を掘って、縄文時代の16軒の家から24個の埋甕が出てきました。この風習は、縄文時代初期から続いているのではなく、ある一定の時期、特定の地域で起こります。期間としては縄文中期後半の4500年から5000年くらい前にかなり流行しました」

——埋甕は何に使われていたのでしょうか。
「昔からいろいろと研究されていますが、結論としてははっきりわからないんですよね。土器が食事用の煮炊きとして使われることはわかっています。でも、なぜ埋められるかはわかっていない。一般的に考古学では、縄文時代中期後半に家の入り口付近の床下に埋めたものを埋甕とします。ほかの場所に埋められた土器もありますが、それとは区別されています。諸説ありますが、一番よく言われている用途が、死んでしまった子供を埋めるというもの。もう一つよく言われるのが、生まれてきた子供が健やかに育つように、出産後の胎盤をこの中に入れて埋めたんじゃないかという説があります。胎盤を埋める説は、「胞衣壺(えなつぼ)」と言って、戦前の日本でもあった慣習です。家の中や外に胎盤を埋めて、それをみんなに踏んでもらうことにより子供が強く育つ。そういう願いを込めていた。だから、この埋甕をそう使ったのでは、という説もあります。ただ、結論は出ない。何千年も前のことなので、この中の物もみんな土に還っちゃうんですよね」

「当時の人たちの暮らしを知るためには、土を調査します。まず、彼らがどのように穴を掘り、埋甕を埋めたか。土器周りの地層の断面を見ます。すると、この甕にほぼ近い形で彫り込みをしていたことがわかりました。つまり、甕をここに埋めようと、意図を持って穴を掘っていたということです。次に、土器の中に土がどのように詰まっているかを調査します。上から下まで一種類の土が入っているか、それとも違う土が入っているかを調べるんです。上から下まで同じ土が入っていると、自然に積もった土ではなく、一気に埋めていたことがわかります。

今回、土の成分を分析するために東京大学の大学院生に協力してもらい、DNA分析のためのサンプリングをしました。今後、その成果が上がってくる予定です。今回24個出たうち、23個の土を上部、下部などに分けて採取し、調査しています。結果はまだわかりませんが、今年度中に出たらいいなと思っています。もしこれで人由来のDNAが出てきたら、死んでしまった子供か、胎盤か、人由来のものが埋められたことが科学的に立証されます」

人々の生活の要。縄文期から湧き続ける「平出の泉」

平出の泉

床尾中央遺跡から徒歩圏にある平出遺跡では、縄文時代から平安時代までの遺跡が発見されており、人々が長く定住していたことが特徴だ。縄文時代は中期まで人が定住し、その後どこかに移住し、古墳時代になるとまた人がやってくる。人々がここに長く住み着いたのは、どのような理由があったのだろうか。

「おそらく、この場所自体が魅力的だったと思うんですね。青森の山内丸山遺跡、九州の吉野ケ里遺跡もとても大きな集落ですが、定住時期は一時的です。塩尻の場合は、床尾中央遺跡もそうですし、平出遺跡にも、縄文、古墳、平安時代という3つの時代に大きな集落が作られている。人が生活する上ですごく適した所だったんですね」

平出遺跡
当時の竪穴式住居が再現され、平出遺跡公園として開放されている

「なぜ人々がここに住んでいたかというと、まず一番大事なのが水です。遺跡からすぐそばに『平出の泉』が湧いています。あの水はおそらく何千、何万年前からずっと湧き続けています。平出遺跡に集落ができたのも同じ理由ですね。江戸時代には、水田耕作で水を確保・管理するために土手が築かれましたが、それ以前は地中からただ泉が湧き、沢が流れていたと思われます。それがずっと、少なくとも縄文時代から現代まで続いている。12月になると、水質維持のために泉の水を抜くんですが、下からどんどん水が湧いてくるのが見えます。地質は石灰岩なので、ミネラルを含んだ弱アルカリ性の水が湧き出てくる。この辺りの土が酸性土壌だから、アルカリ性の水と中和され、畑や耕作にちょうど良い、最高のバランスになるんです。農業用水として、今もずっと使われています」

平出の泉
青く澄んだ神秘的な水に目を奪われる

「驚くことに、泉の水が枯れたところを見たことがない。聞いたこともありません。雨が降ったから水が湧くというレベルじゃなく、常時、水が途切れることなく湧き出ている。毎秒45リットルくらいの水量じゃないかと言われています。
ただ、水は恵みをもたらしますが、氾濫すると村を壊していきます。大きな川は確実に採水できますが、台風になると大洪水が発生することがある。古代は現代のような護岸がないから、流路が変わって村を飲み込んでしまうこともある。でも、平出の泉の湧き水は、見てわかるとおり、雨水で氾濫して村を流すような水量、激流にはならない。いい水が取れて、生活にも、飲み水にも、煮炊きにも使える。災害も起こらないという、とても良い環境だったんだと思います。

今集落に住んでいる人たちも、平出の泉をすごく大事にしていますね。きれいに使い続けられるよう、地域の中で水の使い方が取り決められている。あの水を使って、夏はスイカを冷やしたりビールを冷やしたり。秋から冬になると野沢菜もあそこの水で洗うんですよ。
平出の泉は湧き水なので、一年を通じて温度が数度しか変わらない。この辺りの気温は冬になると-10度以下になりますが、あそこの泉は一切凍りません。常に10数度の水温を保っているんで、冬になると水道水よりも温度が高いこともある。

そんな豊かな環境だったから、長い期間にわたって人が住み続けていた。おそらく平安時代以降は、今集落に住む人たちのご先祖様が住み着いていたと思うんですよね。ずっと住み続けている方が多数いらっしゃいますから」

平出の泉から流れる水路
景観に配慮し、U字溝にしないのだという

祭祀色の強い集落?釣手土器が多数出土。空間を演出した縄文人

釣手土器

埋甕に加えてもう一つ、今回の発掘調査で多数出土したのが、釣手土器(つりてどき)という種類だ。釣手土器の用途は、室内でランプとして使用されたと考えられている。

「釣手土器は、普通のランプではなく、特別な、祈りの世界につながる祭祀などに使われていたんじゃないかと言われるものです。床尾中央遺跡で、破片も含めて10点近く出ています。通常は一つ、二つしか出ない釣手土器が、これだけ一つの遺跡から出ているので、『この遺跡、他と比べて祭祀色が強いんじゃない?』と言われています」

釣手土器

「釣手土器の中に動物性の油などを入れて、火を付けていました。縁にススがしっかり付いているので、ここで火を焚いていたことは間違いない。名前や形から、上にぶら下げているイメージが湧きますが、重い土器ですし、多分置いて使われていたと思います。釣手土器が見つかるのは家の床が多いので。

ここで見つかった釣手土器の形態は多様で、4形態から5形態くらい。かなり豊富です。通常は一つの形しか出ないんですが、複数のパターンが出ているので、この土地に各地から釣手土器が集合していたんじゃないかと考えられます。ここが拠点となり、各地に広がったり、届けられたりしていたのではと。まだ発掘したばかりなので、分析はこれからですね」

造形も見事ながら、釣手土器に驚かされたのは、そこに灯りをともした光景だ。こちらの土器は、四角い星のような形が角でつなげられ、火の覆いが作られている。一見するとその形状に目がいくが、ランプとして着目すると、形状の間にある円形の穴が大切な役割を果たしていることがわかる。小松館長に、釣手土器に光をともした写真を見せていただいた。暗闇の中で光をともすと、土器を中心に、円形の光が放射状に広がっている。この光景を縄文人が見ていたことを思うと、その知性と美意識に感激した。当時の人々は空間まで演出していたのだ。

灯りをともした釣手土器

灯りをともした釣手土器の裏側

類稀な縄文の感性を、創作物から掘り当てていく

1階の常設展示室にも、主に塩尻で出土した土器や土偶が数多く展示されている。どれもとてもユニークで、土偶の表情や形状、土器の模様に惹きつけられる。作り手は何を表現しようとしたのか。見て、想像するだけで楽しい。

出土した数々の土偶

博物館で人気の土偶。何かに見えるような?
顔の模様は刺青だと考えられている

顔面把手の顔
女性の出産時の顔を表しているという見方もある

細密な模様が施された土器
この土器に魅了され、度々訪ねてくる人もいるという

宇宙人がお風呂に入っているような土器
器を女性の子宮と考える説もあるようだ

平出遺跡で出土した、塩尻地域の特徴的な唐草文の土器

弥生土器

博物館には弥生時代の土器も展示されている。形状、模様、色、大きな変化が見られ、縄文土器と直に比較すると興味深い。
「弥生時代になると、生活において機能的な充実を求め始める。縄文時代の土器の形は、大体口が大きく開いたタイプが多いんですが、弥生土器は口が閉じた壷型の土器が多くなる。もしかしたら、稲作が始まり、土器に物を入れる時、口が大きい縄文土器にお米を入れたらネズミにやられるかもしれない、と考えたのかも。外敵から守るために機能的な土器ができたのかなと思われます。日常生活の中で、何が使い勝手がいいかを重視したんでしょう。縄文土器は、決して使い勝手のいいものじゃないと思うんですよ。こういう装飾を付けるところに縄文時代の人の感性が表れている。一方で弥生時代の人たちは、こういう機能的で使いやすい形を好み、デザインしたのでしょう」

——現代人は、縄文人にどんなことを学べるでしょうか。
「やっぱり縄文時代の人の感性というのはなかなか真似できない。真似できないからこそ、当時の人たちがどんなことを考えて、こういうものを作ったのかと想像すること。それがやっぱり、現代を生きる人にとって大事なことじゃないかと思います。本当に、成果や機能だけを追い求めていたらたどり着かない。そういうところじゃないのかなと思いますね」

展示風景

縄文人の足跡をたどり、感性に触れ、想像する

世間にはさまざまな縄文観が存在するが、多種多様な出土品を前にして、まずは自ら感じ、想像することが、当時の人々について知る第一歩であるように感じられた。何千年の時を越えて、これほど明瞭な足跡を残してくれているのだから、写真や言葉よりも、まずは足を運び、見て、触れて(触れる物もある)、当時の人々の感性を受け取ることで、見えてくることは多そうだ。
近年、長らく続いている縄文ブーム。コロナ禍という自らと深く向き合う時間を経て、和、創造性を重んじる縄文の価値観にさらに注目が高まっているように思う。本展には半数以上の方が県外から訪れるそうだ。土器づくりのグループが団体で鑑賞に来ることもあるらしい。

企画展「掘ったら出た! ~床尾中央遺跡発掘速報展~」は、5月24日(日)まで。今後は、夏にかけて塩尻の埋甕を集めた展示を、夏から冬には床尾中央遺跡や松本平を中心に出土した釣手土器の展示を予定しているという。
塩尻は電車のアクセスも良い。中央本線特急で向かえて、都内からは日帰りも可能。縄文の息吹と、変わらぬ土地の豊かさを味わいに訪れてはいかがだろう。

展覧会情報

企画展「掘ったら出た! ~床尾中央遺跡発掘速報展~」
会期:2月14日(土)〜5月24日(日)
会場:平出博物館
開館時間:午前9時 ~ 午後5時 ( 最終入館は午後4時30分 )
休館日:月曜日(祝日、振替休日の場合は翌平日)、祝日の翌平日、年末年始(12 月 29 日~ 1 月 3 日)
Webサイト: https://hiraide.shiojiri.com/

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