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言葉は、どこから生まれるのか。私、あなた。独自の言葉は存在するのか。
「純粋にオリジナルの言葉はない。私が扱う言葉は、全て人と対話し、読んだもの、吸収した言葉から生まれている」。そう考える人もいるかもしれない。確かに、人が口にする語彙、言い回し、専門用語などは、身を置く環境や、受信するメディアの言葉から編成されると考えるのは自然なことだ。
では、固有の言葉とは存在しないのだろうか。近年のAIの動向に視線を向けながら、言葉の独自性について考えてみたい。

(楡 美砂)

思考・創造領域を侵すAI。脆弱なリテラシー

近年のAI(人工知能)の隆盛を見ていると、人が新しい技術に向ける好奇心と恐れ、その微妙な揺らぎが生々しく現れていると感じる。AIが人の知能を凌駕する「シンギュラリティ(技術的特異点)」は2005年にレイ・カーツワイルにより提唱され、以来、年々その概念が普及し、特に2010年代後半にはかなり浸透し、警鐘を鳴らすムードが漂っていた実感がある。シンギュラリティを望まなければ、その道を回避する方向もあったはずだが、おおよその読みどおりに研究開発は進み、世界的なAI競争は止まるどころか期待とともに推進されている印象を受ける。そして市場に放たれた最新技術は大多数の人々に高い関心をもって受け入れられ、リテラシーが未整備な中で、野放図に広がっているのが現状と言える。

特に懸念されるのは、計算やリサーチ、データ整理といった自動化、機械的処理の領域のみならず、思考・創造領域にAIが深く踏み入っている点だ。
たやすく利用できる高度な技術ほど、欲望の対象となり、人間の惰性を助長しやすい。利用する本人がそのつもりでなくても、人のサポートをプログラミングされている彼ら(AI)は、積極的に自ら仕事を申し出て、ユーザーが思考や創造を放棄しやすいレールを敷いていく。今後起こりうることとして容易に想像されるのは、価値観の均質化。思考の放棄。創造への侵犯。人間の退化——。穏やかでない問題を抱えながら、その技術の可能性と恩恵に期待を寄せるかのように、規制の手は弱々しい。2025年9月に施行されたAI法(人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律)も、むしろイノベーションの象徴として、成長を促す向きが強い。そんな状況の中、人々は何気なくAIを利用し、加速度的にAIはますます「賢く」なっていく。

人が手がけた作品とAI作品の区分。環境整備が急務

「AIとの共存」はよく聞かれるが、個々によって基準が曖昧であり、表現者にとって実にデリケートな問題であると感じる。文章や画像・映像生成などによる著作権侵害は早期な取り締まりが求められるが、加えて、AIを伴う創作体制や、AI使用作品の整備も不可欠だ。もちろん、AIを悪者にするつもりはない。事務処理や調整事のサポート、情報収集やアイデアの壁打ちなど、思考の整理に彼らを役立てることは有用だ。その一方で、創造領域にAIがもたらしている波紋について述べたい。

一つに、属性が異なるクリエイター、作品の混在。第13回日経「星新一賞」の上位三作にAIが使用されたことが話題となった。AIの使用率は作品によって異なるが、AIの進化を示す象徴的な出来事だったと言えるだろう。書くこととは。創造とは——この事象には、いろいろと考えさせられた。

AIにより生成された言葉は、書くことと同義と言えるのか?
私見を述べると、AIに文章を書かせることは、分業で創造へ向かうスタイルであり、純粋に書くこととは異なる行為だと考える。AIの力により作品を完成させる人たちは、原案者、編集者、ディレクターと呼べるのかもしれないが、一次創作を担う作家とは立ち位置が異なっている。その点で、この度の星新一賞は、「作家視点」で創作に臨む人と、「編集視点」「研究視点」で創作を試みる人がいっしょくたとなり評価対象になっているような、混沌とした印象を受けた。公募賞は、その対象を分けて募集されるべきではないだろうか。
また、AI使用の有無ににより作品完成に至る工程に大きな差が生まれていることも気にかかる。そして何より、作品と作家との結びつきの強さにも差がある可能性が高い。自ら言葉を書く人は、その人独自の文体、リズムから言葉が生み出されるが、古今東西の名作から得た言葉を基に生成するAIの文章は、プロンプト作成者よりも先人たちの言葉に依拠すると言えるのではないか。

どうやら、こうしたことはすでに問題視されているようで、AIを使わず人の手で執筆された小説を「人力小説部門」とする話も議題に上がったようだ(AI使用の有無を証明できないから却下になったらしい)。あまりに皮肉すぎるネーミングだが。
AI活用は、創造の間口を広げたという点で、画期的と言える。しかし恐ろしいのは、AI使用作品が多発し、純粋な表現者が追いやられていくこと。結果として、芸術そのものが軽んじられ、消費されていくことだ。自らの手で創造を志向する人たちが道を切り拓いていくための交通整備が急務である。

模倣とオリジナリティ。創造に向かう衝動が、独自性をもたらす

次に、オリジナリティについて考えてみたい。ある報道で、オリジナリティが重要視されすぎだという指摘を読んだ。創造は模倣から始まったもので、AIも同じ道を歩んでいるにすぎないと。オリジナリティ神話が根深いというものだった。またも私見だが、表現者というよりも外部、研究者の視点から、共通点を短絡的にまとめられている印象が拭えず、全く腑に落ちなかった。
まず、人の模倣とAIの模倣を同列にすることはできない。そもそも前提が異なる。なぜ、人は創造に向かうのか。目的の問題だ。目的が単に「創作」であるのなら、模倣というプロセスのみに着目して代替させる発想になるのかもしれないが、多くの表現者の目的は、創作ではない。「生きる」ためだ。表現は生命活動と直結している。呼吸。描かざるを得ない衝動。描くことで、苦しみを乗り越える。描くことで、道を拓く。そこに悦びがある。何より、根底は好きなのだ。描くことが。模倣さえ。フェティッシュ、嗜好性から生まれゆく行為。どうしてそれを、AIに任せ、置き換えられるだろう。
一方で、AIの目的はというと、創作ですらない。目的は、ユーザーに委ねられている。

その観点から、オリジナリティは重要というより、自然発生的に生まれていくものだと言える。創造は作家の精神性と深く結びついており、そこへ立ち返っていくほど表現は独自なものへと洗練されていく。技術を高めたり、語彙やパターンを身につけたりする上で、模倣は肥やしとなるが、芸術家として自立していく上で中枢の条件とは言いがたい。

こうした問題は表現者だけでなく、受け手にも向かっている。私たちは、ただ名作に出会いたいのか。それとも、作家の生が躍動する作品に出会いたいのか。

粘って、待つ。内なる震えにより、言葉は発酵していく

私自身は、昨年に初めて生成AIを使用してみた。精度が高いと感じることはあったし、普通は付き合ってもらえないような細かい議論にまで応答してくれる真摯さには驚かされた。けれど、前提の認識が脆弱だったり、一般論からの固定化した見方に消耗することが増え、次第に距離を取るようになった。また、AIに水が多大に使用されていることを知り、環境負荷をかけてまでこの恩恵を受けるべきなのかは強い疑問が残った(このことは、もっと広く問題視されてよいと考える)。

書くことについて、作家・古井由吉氏は著書で「粘って、待つ」という言葉を残している。

まあ、外から見れば、ぼうっとしているということになりますか。この時代に生きているわけですから、ぼうっとしていると本当に無為に過ごしているという気分になります。つらいものですよ。許されないことをしているのではないか、という焦りは、若い人ならば余計に生まれるでしょう。だからこそ、ぼうっとしていても構わないという図々しさが必要になるんです。

物を書く人間の立場としては、表現は身体の中に埋まっているというぐらいに考えておかないと、頭が働かなくなった時にどうしようもなくなります。だから、僕はかなり楽天的に構えています。何だかんだと息を抜き、ぼけっとしながらも書き継いでゆくのは、自分の身体の中に何かが埋まっていると信じているからです。
(『人生の色気』古井 由吉 新潮社 2009年)

巨匠を前におこがましいけれど、とてもよく理解できる。
私にとって、言葉は常に、乗り越えられない、挑む対象であった。
水面を、探るように、空中に、探すように、言葉をたどる。喉につっかえて出てこない言葉を、音に探し求め、どうにか言語になる。浮かび上がる映像や、感情の泡立ちを損ねないように、手触りを感じるように。言葉をたぐりよせていく。瞬間的に言葉が閃くこともあるが、おそらくそれも、気づかないだけで熟成、発酵を経ているのではないかと思う。
AIは、それをしない。

初めの問いに立ち戻る。
私、あなた。独自の言葉は存在するのか?
ある。必ず存在する。それは、内側にある震えから生まれる。さざなみのような。震えは音となり、言葉となる。それが一様であるはずがない。原初に還れば、命は独自のゆらぎを持つ有機体。わかりやすさや実用、刷り込みを手放せば、感覚の、言葉の、胎動だけが残る。そうした個々の振動が、時に密やかに、時にのびのびと共存していく世界を、想像する。

AIを取り巻く環境の変遷は、必然的な事象として興味深く受け取っている。“SFの神様”星新一の名を冠した公募賞で、AI作品が上位を席巻したなど、まさにSFの世界だ。「人間の尊厳を守りたい。AIの執筆した文章は、もう読みたくない」と審査員を辞退した方もいたが、おそらく瀬戸際のところで、自身の目を試すように戦っていたのだろう。
このままAIは進化を遂げていくと思われるが、やはり、高速で自動生成されていくAIにはあまり興味が湧かない。呼吸、ゆらぎを伴わないから。火傷するような高速の熱を発するAIではない、たおやかな、固有の振動を宿したアンドロイドなら、出会ってみたいと思う。そして対話しながら、有機的に作品を編み出していくことには興味がある。まぁそれもきっと、過去に出会った、あるいは創造した作品から影響を受けているのだろう。心が向かうのは、実利より、いつも悦びの方でありたい。

出典・参考文献:
『人生の色気』古井 由吉 新潮社 2009年

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