物を持つことよりも持たない価値が見直されて長い気がする。
断捨離、ミニマリストなど、足るを知り、必要以上に物を持たない暮らしは、一つのライフスタイルとして定着してきている。物が少ない空間は雑然とした環境よりもすっきりと洗練され、余裕があり、心地よく映る。情報過多の現代ではなおさらだ。それはきっと、ただ物が少ないというよりも「選別できる」価値なのだろう。
混沌について考えてみたい。
「エントロピー」という概念がある。これは一般に、物理学、熱力学で使われる概念で、「無秩序さ」と解されることがある。混ざった液体は分離しない。割れたグラスは元に戻らない。こうした例が主に挙げられ、エントロピー増大は秩序を失う方向で言及されることが多い。しかし厳密には、エントロピーは状態の数の多さを示す尺度であり、エントロピー増大は可能性の高さに直結する。そう考えると、片付かない部屋、荒廃した廃墟。これらに多大な可能性が秘められていると言える。一見ごちゃっとして、所狭しと商品が置かれた雑多なお店のポテンシャルを想像すると、腑に落ちやすいかもしれない。
先日、都立明治公園で「読の市」という、個性的な書店が多く出店する本好きに向けられたイベントが開かれ、最終日に少し訪れてみた。穏やかな空気の中で程よくにぎわっており、青空の下、層をなして静かに古書を物色する来場者たちの姿は、何か希望を感じさせた。そして私も、中原淳一編集の『それいゆ』(NO.23 1952年冬号)を入手。文化雑誌という枠を超え、中原氏の美学、哲学が詰まった芸術書だ。心ときめかせてページをめくり、そこに書かれていたジャーナリスト大宅壮一(1900〜1970)の芸術家に関する記事を興味深く読んだ。
芸術家の使命には、二つの大きな面がある。一つはありのままの世界を正しく掴んで精細に再現することであり、もう一つはありうる世界即ち“可能性の世界”を想像することである。これはすべての芸術家についていえることだ。
(『それいゆ』NO.23 音楽特集 1952年冬号 大宅壮一「芸術家と恋愛」より)
「可能性の世界」。
記事は、芸術家は当事者としてだけでなく監督のように物事を俯瞰し、さまざまな視点から見つめることが求められるというもので、必ずしもエントロピーと直結する内容ではなかったが、そんな芸術家の想像力を支え、視点を増やすための土壌の肥やしとなるのが、エントロピー増大なのではないかと思い至った。秩序は即席で生まれるものではない。数限りない事象、存在に対し自らを開いてアンテナを張り、受け止め、ある種の混沌な状態に陥った先に、混沌の機微に触れながら、繊細に編まれていくものなのではないかと。
なお、大宅壮一はテレビの普及による民衆の想像力・思考力低下を憂い、「一億総白痴化」という言葉を残した人だ。豪胆なジャーナリストとして知られている。こうした作家陣を筆者に迎えていた『それいゆ』。「女性のくらしを新しく美しくする」という中原氏の編集哲学の深さ、いかに骨太な雑誌であったかをあらためて実感した。
とまぁ、散らかった部屋を肯定する理由を探すように、エントロピーの可能性を見つめてみた。この思索は秩序を否定するものではない。大切なのは、プロセスを生きることなのだと思う。ピカピカの新店に足を踏み入れると「きれいですね」「最新の技術、便利ですね」で終わることは珍しくないが、入った瞬間、その空気の濃度に圧倒される空間が存在する。そうした場所はどれだけ整然としていても、人や事物の存在感、混沌の気配が残っていることが多い。物が少ないのに濃度の高い空間に身を置くと、ここにはかつて、どれほどの混沌があったのだろうと想像される。そうした空間はどこか、多くを語らない小説に似ている。余白ににじむ、叫び、混乱。そう思う時、見えない何かと交感している心地にさせられる。
エントロピー。宇宙の原初に通ずる現象。
手がつけられないほど荒れ、野晒しとなった土地。枯葉、折れた枝、崩れた岩肌。風景の前で動けなくなる時、それは現在という瞬間だけでなく、過去の折々から未来を貫く衝動に打たれ、立ち尽くしてしまう感覚に近い。私の場合、こうした感覚は自然の中にいる時、芸術作品を前にした時、そして特定の人と会った時、生じる。決して多くはない。けれど一度でも起こると、生きる意義にも直結するような、強い衝動に見舞われる。そうした、時を経て生まれ出る震えのようなものを、私はエントロピーに感じる。
(楡 美砂)
monad note
響く。湧く。流れる。散る。舞う。消える。 創造の水脈を訪ねる人・楡美砂による表現者のための覚書。