とかく、音が多い。
広告、動画、SNS——情報が飽和する現代。音があったほうが安心できるという人もいる。
表現者はどうか。スタイルによるが、なかなか、自己の創造領域を守れず悩む人は多いのかもしれない。
特に、リアルな接触、音の影響は大きい。体にも意識にも残響が鳴り、自らの世界に足跡を残し続ける。
表現者にとって静寂は価値だ。音が生まれる前の、意味が生まれる前の静けさ。沈黙。
始まりの音に手を伸ばそうとする。
流れているものがある。かもしれない。水?砂? あるいは、ざらついた岩肌。そびえている。
満ちる前に、なぞる。流動のうちに。固まる前に。質感を確かめる。奥にあるものに。
それは音となり、言葉となる。時にイメージとして、絵にも、映像にもなる。
他者に対しても同じ。奥にあるものが、響き合っている。
あるいは互いの音をずらし、同調を避ける。切る行為。それも必要。
瞳の奥で震えるもの。それが共振したら、おそらく尽きはしない。交感し続ける。
表現者は、描く対象にその震えを見出そうとする。
深く内観するほど、外界を射抜く。
奥を守る人たちは、静けさをわかち合う。それは、言葉を継ぐ必要のある間ではない。
外界に応答するばかりで奥が置き去り。
珍しいことではない。外の振動により、奥が活性化することもある。
けれどその源流は、誰しも立ち入れない、自ら向かい続けるしかない始まりの海。
外界の音。そこに命の、奥の揺れはあるか。ないのなら、後回しにしてかまわない。
即レスは終わり。
呼吸をして、耳を澄ます。悦びの震え、奥に眠る豊かさに。
(楡 美砂)
monad note 揺れる。流れる。散る。舞う。 創造の水脈を訪ねる人、楡美砂による表現者のための覚書。