眼差しが触れ合い、時が止まる瞬間。その一瞬は、永遠の傷にも、輝きにもなりうる。
初めて胸が高鳴った日。生きる理由を知ったかのような、とどめられない高揚。
そんな密やかで激的な、心情の移ろいを描いたフランスの巨匠ロベール・ブレッソン監督(1901〜1999)の名画『白夜』(1971年)が、ユーロスペース(渋谷)などで上映されている。原作はドストエフスキーの同名短編小説(1848年)。1978年の日本初公開後、特定の場でしか上映されない幻の作品だったが、2012年にリバイバル上映。そして2025年3月7日(金)、4Kレストア版が公開された。
本作は、画家のジャックが夜中にポンヌフで身を投げようとしている美しい女性マルトに出会い、4夜にわたり心を通わせていく物語。純粋なシネマトグラフ*を追求し続けたブレッソンの作品は、ゴダール、トリュフォー、ヴィム・ヴェンダースなど数えきれない作家に影響を与えてきた。本作は他のブレッソン作品と同様、創作スタイルや映像文法的な観点ですでに数多く語られている。ここでは作品の世界に軸を置き、夢想家と称される主人公ジャックの視点に迫りたい。
シネマは万人共通の基盤から力を汲む。シネマトグラフは未知の惑星への発見の旅である。
『シネマトグラフ覚書』ロベール・ブレッソン
*シネマトグラフ
1895年にリュミエール兄弟が発明した映画装置。「シネマ」の語源。「シネマトグラフとは、運動状態にある映像と音響を用いたエクリチュールである。」とし、ブレッソンは生涯「シネマトグラフ」を使用した。ブレッソン著『シネマトグラフ覚書』に詳しい。
でんぐり返し。鼻歌。自声を録音。夢想家の象徴的描写

本作は、ジャックがヒッチハイクをするシーンから始まる。無言で腕を掲げてぎこちなく動かす姿は、異界の存在が地上人と交信を図ろうとしているようにも見える。郊外の地に到着したジャックは草原が生い茂る斜面を2回でんぐり返しをする。気分良く鼻歌を歌う。そして空想をレコーダーに記録する。彼に遭遇する人々はその異様な行動を凝視する(マルトに心奪われたジャックが、バスの中で「マルト。マルト。マルト。マルト。」と呼ぶ声を再生するシーンは劇場で笑いが起きた)。
自然との触れ合い。街中の徘徊。声の記録。女性への関心。ジャックの世界は彩り豊かだが、事物との距離感が一定で平坦だ。好奇心は強いが、常に目移りし、特段に好き、嫌いがあるように見えない。自分の世界に安住しており、外界との境界線をたやすく超えることができない。知人がアトリエに訪ねてきた際に、自身の作品を全て裏返し、壁側に向かわせるシーンは印象深い。
ブレッソンは役者の意図的な演技を嫌い、多くの作品で素人を配役したことはよく知られている。ジャックを演じるギヨーム・デ・フォレも役者でなく、撮影当時、天体物理学を学ぶ大学生だったという。力みがなく、表現する意識より先に体が動きだすような、無言の説得力がある。多くの役者は、演技に熱中しつつもいくらかは人目を意識しているものだ。それが演技を軽くも深くもし、役柄によってはフィットする。しかし、本作の役柄に合う役者はなかなか見つけがたいだろう。夢想家は、創意そのものと言える。意図するより先に、在る。ブレッソンが配役する素人“モデル”が備える緩み、余白、オートマティスム的感覚は、表現を極めようとする役者とは対照的な位置にあるように思われる。
以下に、ブレッソンが『シネマトグラフ覚書』で役者とモデル、オートマティスムについて記した言葉を引用したい。
俳優の表情豊かな顔、そこでは、彼が思いのままに作るもっとも小さな皺さえも、虫眼鏡で拡大してみると、歌舞伎役者の過剰さを思わせる。
われわれの動作はその九割までが習慣や自動現象に従っている。それらを意思や思考に従属させるのは、反=自然的なことだ。
霊感を自動的に吹き込まれた、創意に溢れたモデルたち。
非接触で愛を深めるマルトと下宿人。密室の甘美な時間

「自分の愛に逆らえない娘」。
無垢な娘が抱いた知的な下宿人への愛。ジャックは想い人を待ち続けるマルト(イザベル・ヴェンガルテン)に寄り添い、その愛を叶えようと献身する。
「我らの愛は清純にして無垢」。
ジャックがマルトに抱く愛のように、マルトが下宿人に寄せる愛も抗いがたい輝きを放つ。その関係は、まともに対面することのないまま育まれていく。下宿人の机に積まれた、ルイ ・アラゴン(アルベール・ド・ルティジー)の官能的な書籍『イレーヌ』。隣の部屋から響くノック。非接触でありながら、感覚で対話していくマルトと下宿人。
暗闇の中で音楽を流し、マルトが自らの裸身を見つめるシーンは、自己信頼を確かめるようでもあり、下宿人との性愛を予兆するようでもある。別れを目前にした日、二人は初めて対面し、外界から遮断された部屋で息を潜め、直立し、抱き合う。その姿に、永遠の光を見る。
なお、ドストエフスキーの原作にこうしたシーンはない。原作の娘の名はナースチェンカ。母でなく、目が見えない祖母と暮らしている。ナースチェンカは心配性な祖母から行動を監視されており、祖母と彼女の服が常にピン留めされているという、何ともユニークな設定。ナースチェンカが動くと祖母が座ったイスがガタンと音を立て、それを下宿人に聞かれて顔を赤らめたり、下宿人から本をかしてもらったりと、その交流は慎ましく、どこかユーモラスで、健全な印象が強い。対照的に、ブレッソンの作品には、清浄ながら、性愛をほのめかす親密な空気が漂う。原作では、下宿人がナースチェンカに渡す本はウォルター・スコットやプーシキンなどの真っ当な作品。ブレッソンは、原作で不道徳な本を心配した祖母にあてつけるように、二人をつなぐ書籍を『イレーヌ』に置き換えている。
ちなみに、本作のパンフレットの装いには密室のシーンでマルトが着ていた洋服を模した柄が採用されている。手にすると、マルトと下宿人の甘美な時間が呼び起こされる。

マルトは最終的に、下宿人と再会を果たす。ただ、マルトと下宿人の将来がそう順調に進展していくのか、一抹の疑問が残る。下宿人はなぜ約束の時間に現れなかったのか。理由は明らかにならない。一年は長いようで、短い。瞬間は永遠か。熱が冷めずに続くことを望みたいような、現実はそう甘くないと見放したくなるような、複雑な心境にさせられる。それは最後まで、下宿人の人物像がクリアになりきらないからだろう。一方でジャックを思うと、マルトへの熱情の火が灯り続けることを容易に想像できてしまう。彼の世界があまりに孤独だから。
天使は創造へ帰還する

「神が天使を遣わし——今、僕にそう告げている。」
第二夜、ジャックはマルトにそう言う。しかし、作品を俯瞰すると、ジャックこそ天使ではないかという気がしてくる。どこか浮世離れしていて、優しく愛を送り、見返りを望まず、マルトと愛する男性の仲を取り持とうと献身する。アトリエにふいに現れる知人。拒絶はしないが、芸術論を聞かされるまま深い言葉を交わさない。知人は好きなことを話して去っていくが、ジャックが否定しないことを無意識に知っている気がする。
けれども、地球で朗らかに遊んでいた天使が特定の女性に恋情を抱き、初めて胸を痛める。
ジャックはマルトに出会って以降、絵筆を取るものの、なかなか制作が進まない。すぐにベッドで仰向けになり、心情をレコーダーに記録し、マルトとの時間を反芻する。
不安定。抑えられない心。高揚の永遠。マルトのためにどこまでもできる。二人の間に、不平等、不公平という軸は通用しない。奉仕が悦びなのだから。
第四夜、ジャックとマルトの心が通い合う。闇夜に光る二人の横顔は、恋人同士そのものだ。セーヌ川をゆくバトー・ムーシュ(遊覧船)の上で音楽隊が奏でるボサノヴァが、二人を優しく包む。
カフェ。机の下で繋がれる手。密やかに、局所的に、焼けるような火がともる。マルトの首に巻かれる赤いストール。
しかし、ふいに別離は訪れる。
愛の芽生えは一瞬。別れも一瞬。その熱、傷は永遠に生き続ける。
昼。ジャックはアトリエで、筆を取り、キャンバスに向かう。赤を塗る。
天使は地上の愛を知り、再び一人となる。孤独者を再び受け止めるのは、創造の海だ。マルトと過ごした時間は、ジャックにどのような景色を届けるのか。
ドストエフスキーの原作『白夜』との共振

どうして何らかの摩訶不思議な神秘の成せる気紛れによって、夢想家の脈は速まり、目からは涙が迸(ほとばし)り、涙に濡れた蒼白い頬は熱く火照り、かくのごとき強烈な喜びで彼の全存在が満たされるのでしょう?
(『白夜』ドストエフスキー)
ドストエフスキーによる原作は、全編を通じて饒舌な語り口で展開される。主人公が相手や人目を気にせず独演するさまは、自身の世界にこもり、内と外のバランスを保てない夢想家の特徴をよく表している。こうした夢想家の姿が、ブレッソンの手にかかるとほぼ沈黙や、レコーダーに自声を吹き込む行為に置き換えられるのは興味深い。なお、『白夜』はイタリアの巨匠ヴィスコンティも実写化しているため、比較鑑賞すると、より作家性や土地柄の違いを味わえるだろう。
いったいどうして一睡もできぬ夜がまるで一瞬の如く、無限の喜びと幸福のうちに過ぎ去り、朝焼けのバラ色の光が窓に差し込み、我らがペテルブルグの常として、夜明けが不確かで幻想的な光で陰鬱な部屋を照らす頃、僕らの夢想家は、疲労困憊しへとへとになった身体を寝台に投げ出し、自らの異様な衝撃を受けた精神の歓喜ゆえに、また気怠く甘美な心の痛みゆえに、息も絶え絶えになって微睡(まどろ)むのでしょうか?
明るい夜に繰り返される逢瀬は、当人たちに、また鑑賞者にどのような感覚を残すのだろう。原作の舞台サンクトペテルブルクがパリとなった本作では、ドストエフスキーが題した白夜を望むことはできない。しかし、ブレッソンの作品では、二人を照らす街灯、二人の間に確かに灯った火を、闇夜が一層際立てているように思える。
原作では、別離の後、マルトから長文の手紙が届く。説明的で、どこか言い訳めいた内容は、主人公をより孤独にする。言葉数の多い原作と本作から受ける感触は絶妙に異なるものの、夢想家の主人公たちの心情は共通している。
あぁ!完全なる至福の瞬間だった! あれは、一生涯分に十分足りるほどのものではないだろうか。
孤独な世界が拡張する瞬間を、その目に
『白夜』公開から1カ月が経過する4月初旬に鑑賞したところ、比較的観客が入っており、年齢層の幅広さが印象的だった。インターネット全盛の時代に、一年にわたって想い人を待つこと、橋の上で起こるすれ違いや、レコーダーへの録音、手紙を渡す、といった行為を、現代人はどこか冷めた目で見る人もいるのではないか、という気もしていた。けれど、本作へ寄せられる感想は熱を帯びた言葉がほとんどで、人々に深く響いていることを実感する。
歴史上、名著、名画、芸術作品は数知れず、それらは今後も後世の人々と交感を果たしていくだろう。けれど、自己の内面を最も拡張させるのは実在する人間をおいてほかにない。本作はそんなことを伝えているようにも思える。孤独な夢想家ジャックの世界が、マルトに出会い、いかに変容し、拡張していくのか。目に焼き付けてほしい。
参考文献:
『白夜』パンフレット
『シネマトグラフ覚書』ロベール・ブレッソン 筑摩書房 1987年
『白夜/おかしな人間の夢』ドストエフスキー 光文社 2015年

『白夜』公式Webサイト:https://byakuya4k.com/
ユーロスペース、ほか全国で上映中。
※最新の上映情報は各劇場の公式Webサイトをご確認ください。
あらすじ
画家のジャックは、ある夜、ポンヌフで思い詰めた表情をしている美しい女性マルトに出会う。翌晩、お互いの素性を語り合うジャックとマルト。ジャックは孤独な青年で、理想の女性との出会いを夢見ていた。一方のマルトは恋した相手に「結婚できる身分になったら一年後に会おう」と去られていた。そして今日がちょうどその一年後。マルトに熱い気持ちを抱きながらも、彼と出会えるよう献身するジャック。だが三夜目になっても男は現れず、マルトの心もジャックに惹かれ始めていた。そして運命の第四夜……。
監督 ロベール・ブレッソン Robert Bresson
1901年9月25日、フランス中部、ピュイ=ド=ドーム県、ブロモン=ラモット生まれ。1999年12月18日、パリにて逝去。
リセで古典文学と哲学を学ぶ。画家、写真家として活動したのち、映画の道へ進む。1934年短篇「公共問題」を監督。1940~1941年にかけて、ドイツ軍の捕虜となる。1943年、長篇第一作『罪の天使たち』以降、遺作となる『ラルジャン』(1983)まで長篇13作品を監督。1975年『シネマトグラフ覚書』(Notes sur le cinématographe) 刊行(松浦寿輝訳、筑摩書房、1987年)。
スタッフ・キャスト・作品情報
監督・脚本:ロベール・ブレッソン | 原作:ドストエフスキー | 撮影:ピエール・ロム | 録音:ロジェ・ルテリエ | 美術:ピエール・シャルボニエ | 編集:レイモン・ラミ | 出演:ギヨーム・デ・フォレ、イザベル・ヴェンガルテン、ジャン=モーリス・モノワイエ
1971年 | フランス・イタリア合作 | フランス語 | カラー | 83分 | 1.66:1 | モノラル | DCP | 原題:Quatre Nuits d’un rêveur | 日本語字幕:寺尾次郎 | 配給:エタンチェ、ユーロスペース © 1971 Robert Bresson