ぶるうは、空なのか。
芸術家・横尾忠則氏(1936〜)が執筆した小説『ぶるうらんど』(2008年発表 第36回泉鏡花文学賞受賞作)は、読者を死から解放し、魂を素っ裸にするような作品だ。

本作の単行本表紙は、青が線を隔てて重ねられ、最上部に白の層が配された意味深なデザイン。表紙をめくると大きなト音記号があり、五線譜を示唆しているよう。横尾氏の鮮烈な絵画は見当たらず、画業と一線が引かれているふうにも見受けられるが、小説においても夢幻的な横尾ワールドは健在。死後の世界における、魂の彷徨。創造。時間。横尾氏の気張りのない文章は読んでいて心地よく、現代の小説から得がたい読書体験を味わえる。また、現世的な観念から解放されたい表現者にはさまざまなヒントが得られるだろう。
物語は「ぶるうらんど」「アリスの穴」「CHANELの女」「聖フランチェスコ」4つの小編から構成される。

死後の日常。ふいに訪れた妻との別離

物語の中心人物、小説家・上野孝次は、妻との会話の中でこう語る。

「結局小説にしろ、他の芸術にしろ、創造というやつは現実からの逃避なんだよ」

上野は、死後の世界においても無心に創作を続けている。死んでもなお時間を気にし、創作の焦りにつきまとわれている姿はおかしくも、哀れにも映る。

創作をする人々は、自意識と戦う人々が多い。ただ楽しいから、ただ受け手のために、という人もいるが、自己表明、自己容認を求めて創作をする人も少なくない。その際に、緻密にこしらえた虚構は、死んでもなお存在し続け、表現者はその中で無意識のうちに安住してしまうのかもしれない。現世において「虚構と現実の両方を生きている」と、死後の世界と現世も見分けがつかなくなってしまうのか。

上野と妻がいる世界は、「時間が後ろ向きに進んで」いて、二人は見た目にも若返っていく。「創造っていうのは時間を超えた世界なんでしょ。」妻はそう言い、上野の若返りを指摘するが、上野はなおあくせく執筆し、その行為を「生理現象の一つ」と言ってのける。締切に追われる仕事をライフワークとしていた人は、死後もその感覚が抜け切らないのか、時間の観念のない世界にまるで適合できずに時計を気にし続ける。滑稽だが痛々しくもあり、表現に関わる立場としては、生きているうちに締切の感覚は解消しておきたい、という心地にさせられる。

そんな上野に、妻は毎日チャイを入れて運ぶ。噛み合ってないようで絡み合いつつ、あちこちに発展していく夫婦間の会話が楽しく、愛しい。しかし、長いようで瞬く間に展開されていく対話の先で、さっきまで会話をしていた妻が、上野の前からふいに消失する。

彼岸への道のり。たどり着いた世界のルール

上野は7年かけて闇を通り抜け、ようやく妻と同じ階層へたどり着いた。暗闇の中は地獄だったと語る。また、のちに「CHANELの女」と称される原節子似の女性が登場するが、彼女もアリスのように木の穴に落ち、同じ階層にやってきた。その闇は天国か、地獄か、はたまた自身の幻想か、異界への標となっていることには違いないようだ。
横尾氏は2023年に、横尾忠則現代美術館で企画展「Yokoo in Wonderland―横尾忠則の不思議の国」を発表している。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」になぞらえ、横尾氏の異次元的な世界を堪能できる展示で、いつもながら意識が飛ばされそうになった。
自身の過去生に関心があり、占いの館で簡易なヒプノセラピーを受けたことがある。木の穴を滑り落ちた先、暗闇の中でいくつかの扉から自分が気に入るものを開けると、自分の過去生の世界へ入るという誘導を受けた。穴とは時間を遡っていく世界、原初の先へ還る道ということになるのだろう。

横尾氏の作品、著作に詳しい人なら、横尾氏が精神世界や死後の世界について博識なことをご存じだろう。また、大半の作品に横尾氏の死生観が現れているといってよい。その知恵や発想が、本作にも言葉として結晶している。
死後の世界では、社会的地位、評価など現世の価値観は一切関係なく、霊格によってのみ住む世界が定められる。妻の消失を目にし、上野は妻が上の階層に上ったことを悟る。階層とは、死後の世界を隔てた幾層もの空間を指す。上から下には移動できるが、下から上には上れないようにできている。

上野は妻がいなくなり、創作意欲が一気に湧き上がることを実感する。妻がいつも入れてくれていたチャイがないことに彼女の不在を実感するが、いつしか、ほしいときにチャイが現れることに気づく。自身の想念がチャイを物質化させている。上野はそう考える。けれどおそらく、上野からは見えない妻が、チャイを入れてあげていたのだろう。

破壊は破滅か。死後の世界における創造とは

第3作「CHANELの女」で、上野は同じ階層で知り合った老画家、そして原節子似でCHANELの香水を付けている朝美に出会う。彼らは死後の世界における創造について言葉を交わす。

興味深いのは、「創造における破壊」に関する言及だ。現世において、表現者は対象を破壊し、各々の美を創造しようとする。ただし、死後の世界では、親和性が重んじられ、全ての観念が美に還元され、現出していく。そのため、描くことはそのまま美を破壊する行為にあたり、目の前にある美を新たに創造的な美へ導こうとしても眼前の美を超えられない。破壊はそのまま破滅につながる。こうした思考のスパイラルに上野は直面する。

「残念ながらこの場所には破滅は存在しまへん。破壊や破滅を求めはるんやったら別の階層に行くか、現世に戻るしかおまへんのや」

示唆的で、表現者に自問を促す言葉が頻出する。不幸や傷、憎悪、葛藤を創作の肥やしにしてきた創り手は、自ずと作品そのものへ疑問符を付けられることになるだろう。何もかもが親和し、平らかになった原初に戻ったとき、創造は失われるのか。あるいは、そこからもう一度、原始の芸術が生まれるのだろうか。

しかし、彼らは表現を続ける。朝美は、死んで初めて小説を書く。上野も、生前の続きとなる小説を執筆し続ける。老画家も、「人間の無意識を具現化した」世界をキャンバスに還元していく。「芸術家よ、語るな、作るんやということに結局は落ち着きまっせ」と老画家が言うように、表現を目的などない行為とみなしたとき、道は開かれるのかもしれない。

なお、第2編の「アリスの穴」は、朝美が執筆したという設定だが、読むからに横尾氏の書きぶりを感じさせる作品となっている。あるいは、憑依体質の彼女が横尾氏により書かされたとも考えられるか。なぜなら、感覚的な展開でありながら、横尾氏の絵画にも共通するように、とても骨組みの強い作品だからだ。横尾氏の絵画は、夢幻的なイメージで構成されながら、そこには必ずと言っていいほど具象が伴う。著名人や神話上の神々のイメージ、数字、英語、矢印が、具象が絶妙なバランスでコラージュされ、共存している。融解しきった抽象の世界とは異なる空間が広がり、そこに男性的な強靭さを感じ、安堵させられる。

表現者を襲う強迫観念。鮮やかに解放へ導く最愛の少女

「CHANELの女」のラストに、印象的なシーンがある。上野、老画家、朝美が芸術談義を交わした後、いつしか彼らの足元にかまきりがいる。彼らがかまきりを見つめていると、2匹の長い針金虫がお尻から出てきて絡まりだす。この針金虫は、何を表すのか。初めは、現世、あるいは彼らが現在いる階層では出会えない存在なのかもしれない、と感じていた。けれど今、かまきりに寄生していた針金虫が鎧を脱ぎ捨てる姿は、第4編「聖フランチェスコ」における上野の行く末の予兆にも思える。

最終章となる第4編「聖フランチェスコ」では、郷里で出会った少女との対話や、朝美との関わりを介して上野の魂が身軽になり、現世で抱え込んだ荷物をおろしていくさまが描かれる。妻の見事な手腕により、上野は自らを貶めていた創作の強迫観念から解放されていく。アッシジの聖フランチェスコさながら、身包みが剥がされる展開は実に魅惑的で鮮やか。ラストシーンは、読者の心も軽やかにしてくれるだろう。

死後の世界の実在については考えの分かれるところだが、輪廻転生の概念は、いつしか自然の摂理に近しく受け入れられてきたように思える。しかし本作の主人公・上野は、元々「人間は死んだら無になるんだよ」という考えの持ち主。その考えが完全に覆された世界で、上野は妻を想い続ける。「死の先に待っている何かがあるから人間は生を大切にしたがるのじゃないかしら」。上野の考えに疑問を投げかけつつも、考えを曲げない夫に「ハイ、ハイ、よーく解りました」と受け止める妻の寛大さ。上野は死後の世界で、妻の存在の大きさを実感し、一層想いを募らせる。

死後の世界を舞台にこれほど純度の高い愛の邂逅を描ききった本作。横尾氏の果敢な試みに目がくらむと同時に、現在の表現者に対し挑戦状を叩きつけられている心地がする。「その表現は、死後も通用するか?」「自ら構築した虚構の囚人となっていないか?」と。表現者一人ひとりがその問いに答えていくことで、新たな地平が開かれていくのではないだろうか。

現世と彼岸をつなげる新時代の小説

黒澤明の映画『夢』では、葬儀が祭りのように描かれる。笠智衆演じる103歳の老人が「本来、葬式はめでたいもの。よく生きて、働いて、ご苦労さんと言われて死ぬのはめでたい」と語り、まぶしいほど明るい橙の衣服を着て、鈴を鳴らす。花が巻かれ、雅な音楽と歓喜の掛け声が響き、盛大な行進の中で遺体が運ばれていく。

葬儀がしめやかに執り行われ、涙ながらに弔辞が読まれる風景は、そうそう変わらないものと想像するが、その形態に幅が生まれていくようにも思える。死後の世界に続く道程の安寧、さらなる魂の飛翔を望み、「お疲れ様。またあの世でね」「チャイを入れて待ってる」。死者とそんな言葉を交わす、晴れやかな葬儀が生まれていく未来を、本作「ぶるうらんど」は想起させる。2008年の発表ながら、新時代の価値観を届け続ける作品だ。

参考文献:
『ぶるうらんど』横尾忠則 文藝春秋 2008
『夢』黒澤明 1990
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