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「荘厳な祈りの空間」「観ていると癒やされる」
1月末に発表された「第29回岡本太郎現代芸術賞(以下、TARO賞)」で岡本敏子賞を受賞した馬場敬一氏の《死と再生のイニシエーション》に寄せられる言葉だ。苦悶し、叫ぶ男。執拗に男を死へ誘う髑髏。憂いを帯びたまなざしの女神。三者が一体となり繰り広げられる神話的世界。そこには見る者の足を止め、強く訴えかける展示空間が広がっている。
審査員の山下裕二氏は「最も強烈なインパクトのある作品」と評し、3月中旬に発表された来館者投票では最高の得票数を集め、オーディエンス賞を受賞した。作家の人生が凝縮された作品に、圧倒される来場者は後を絶たない。絶大な強度を持つ世界観は、どのように生み出されたのか。藝大受験、インド放浪、母の介護、鬱、パートナーとの歩み、気鋭の芸術家の半生をたどる、ロングインタビューをお届けする。

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(楡 美砂)

展覧会情報
企画展「第29回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)」
会期:2026年1月31日(土)~2026年3月29日(日)
会場:川崎市岡本太郎美術館
開館時間:9:30-17:00(入館16:30まで)
休館日:月曜日
Webサイト: https://www.taromuseum.jp/exhibition.html

ネガティブをポジティブに。「髑髏だらけなのに癒やされる」

《死と再生のイニシエーション》展示風景

受賞作《死と再生のイニシエーション》の展示空間には連日、老若男女多くの来場客が訪れる。馬場さんは、自らの人生が凝縮されたナラティブ(物語)を、個別の作品の解説も交えながら丁寧に伝える。長時間滞在する人、リピーターも多い。中には4度訪れた人もいるという。

「嬉しいですね、本当に。これほど大きな反響を頂けたのは、今回のシリーズを発表してからのことで、初めての経験です。それまでの展覧会は知り合いが9割、ギャラリー巡りをする方がほとんどでしたが、このシリーズでは半分は知り合い、半分はSNS経由でお越しくださり、来場者が倍ほどに増えました。

以前は、ダンボールで痛みを傷で表現する、痛みを突きつけるだけの作品を創っていました。でもこのシリーズを制作し始めて、前作と同じ流れにあることは間違いないんですが、傷を樹脂でコートし、輝きに転化するイメージが生まれて、ついにネガティブをポジティブに変えることができた。その意味で、創ってきた作品の内容が全く変わったと思っています。確かに希望があるというか、救いのある世界を構築できた。そこが、昔の作品とは大きく違うところです」

来場者に作品を解説

「イニシエーション」とは通過儀礼を意味し、心理学では困難を克服して次のステージに移行することを指す。馬場さんは過去に二度、鬱を患った経験がある。本作の制作を通じて自らを癒やし、長い暗闇をくぐり抜けた。作品の表面に見られる傷は一見すると悲痛を伴う表現だが、ポジティブな声が多く寄せられるという。絵肌に刻まれた裂け目は、鑑賞者の傷口と響き合い、安らぎを生んでいるのかもしれない。

「会場にはいろいろな方がいらっしゃいます。『現在鬱で苦しんでます』という方や、鬱経験者の方も来られる。そういう方は、僕の作品を観て癒やされるって仰るんです。ドクロだらけの世界なのに。この作品を見て、『息抜きできます』と言ってくれる。多分、痛いほどわかるんでしょうね、僕が描いている世界が。泣いてしまう人も結構いらっしゃいます。心が疲弊してる人。パッと見て『ドクロばっかりで何となく怖い』という方もたまにいるけど、僕の作品をわざわざ観に来られる方で怖いという人はほぼいない。癒やされる、あと、力強いとか、パワーをもらえるとか。そういう、ポジティブなメッセージを受け取っていただけている手応えはあります」

馬場敬一氏

TARO賞に応募を決めた理由。鑑賞体験を届けたかった

 「TARO賞に挑戦しようと思ったのは、 2024年11月に開催した個展がきっかけでした。そこで、しっかり鑑賞体験を届けられたと手応えを感じたんです。作品をご覧いただく導入として、こういう冊子を作ったことも大きかったと思います(写真参照)。そんな仕掛けもあってか、鑑賞者の滞在時間がすごく長くて。観る方の集中力がすごく高かったんですね。気が伝わってくる。中には泣いちゃう人もいて」

個展の冊子、DMなどのデザインも自ら手がける

「大勢の方が観に来てくれましたが、まだ集客が全然足りないと思い、どうすればもっと広がるのか考えました。最初に浮かんだのはアートフェア。単純に、たくさんの人の目に触れたら、必ず次の展開があるだろうと思いましたが、もしアートフェアですぐに作品が売れると、作品が散り散りになってしまって僕が望む鑑賞体験を届けることができなくなる。だったらコンペが合ってるのではと思ったんです。それからもう一つ。一般の方々には、ある程度作品の意図が届いた実感はあったけれど、僕は大学卒業の肩書きもなく、大きなタイトルを取ってないから、レベルの高い公募展で賞を取って専門家のお墨付きをもらいたい。次のステージに行くために、それが一番必要だと思ったので、個展の会期中にTARO賞に挑戦しようと決めました。その後、ちょうど1年前の今頃に前回のTARO賞の展示を視察しに美術館を訪れました。展示を観て、これなら大作を創れば狙えるな、と確信した。それから制作に取りかかりました」

作家活動の節目となるシリーズを発表し、手応えを感じていた馬場さんにとって、注目度が高く、大作を完成させる技量が求められるTARO賞は、次なる発表の場として恰好の舞台だった。岡本太郎の思想に長年共振してきたことも、挑戦を後押しした。

「太郎さんの思想には、20代前半からかなり影響を受けてきました。公募団体などに属したことは一度もなく、独自路線で我が道を模索してきました。

タローマン(映画『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』)の主題歌の歌詞に、『うまくあるな、きれいであるな、ここちよくあるな、マイナスにとび込め!』とあります。長年この通りにやってきましたが、最近は少し反発しています。僕の作品は単にきれいではないし、単に心地よくはないし、マイナスへ飛び込んでいますが、少しだけ上手くデッサンを描き、アカデミックな構成理論で画面構築しています。やはりここが岡本太郎賞的ではなかったのかなと感じています(笑)

太郎さんの作品と共鳴を感じるのは、グレートマザー(太母)や、月と太陽などのアーキタイプ(元型)を用いて表現しているところ、縄文的でプリミティブな要素ですね。そして、祈りでしょうか」

グレートマザーとは、主にユング心理学で提唱される概念だ。全てを受け止め、吸収し、生死を司る母なる存在。尽きない泉のように命を生み、育む一方、激しい波のように命を引きずり込み、死をもたらす恐ろしい一面も併せ持つ。世界の神話、信仰で多く見られる地母神にも通じる存在であり、民族学を学び、縄文文化や日本の祭り、世界の信仰を探求した岡本太郎の思想と響き合うものがあった。
馬場さんは19歳の頃、ユングやヘッセ、ゲーテ、ドストエフスキーなどの哲学、文学を夢中になって読んだ。藝大を目指していた頃だ。作品の強度は、作家が深く向き合ってきた思想の蓄積に由来している。

藝大合格を目指す日々。空っぽの自分を読書で耕

「大学は行ってないんです。絵の勉強は都内の美大受験の予備校に高校一年の春から通って、その時は藝大のデザイン科を目指してました。部活でサッカーしながら、土曜日にデッサンを描きに行って。高校は私立の一貫校に通ってましたが、外部受験から勉強できる人が増えて、どんどんついていけなくなって。高校時代は本当につらかったですね。勉強できないと厳しい学校で、中一から毎年10人くらい留年するんです。劣等生だったから、いつもギリギリで上がるという感じで。ついに高二で上がれなくなったんで、もう外に出ようと。大学受験の資格だけ必要だったから、編入で別の学校に移りました」

父は明治生まれの日本画家。母は子供服の雑誌を刊行する出版社の編集者。両親から教育面でプレッシャーをかけられることは一切なかった。幼い頃から絵の才を発揮していた馬場さんは、自然と芸術の道へ進み始める。

「『藝大を受ける』と伝えた時の母の反応は、父が画家だから息子もそうなるよね、という感じ。予備校に行ったら、高一から学年トップで、割と早い段階から目立ってたんです。高校で劣等生だった僕が、予備校ではトップで、『天才君』と呼ばれる。急に周囲から尊敬の目を向けられて。とにかく居心地がいい場所でしたね、美術の世界が。学年トップ公認になって、デッサンからスタートしてアカデミックなことを徹底的にやりました。でも、得意なだけでは道を開けなかった。画力、技術だけでは。高三で藝大のデザイン科を受験したんですけど、現役で落ちて、1浪して落ちて、2浪が決まった時、描くべきものが何もないことに気づいたんです。受験に合わせて鍛錬するから、技術だけは磨かれるんですけど、技術を使って表現したい内容が一切ない。本当にショックでした。19歳の頃です。自分が空っぽの存在だと気づいてしまった」

「そこから始めたのが読書だったんですよね。それまで大した本を読んでなかったんですが、いろいろな本を読むようになりました。コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』という本があって、結構影響を受けましたね。反ブルジョワジー思想に。ショーペンハウアー、ゲーテ、ニーチェ、ヘッセといった芸術家、思想家が取り上げられていて。反ブルジョワジーは、全体主義に対するアンチでもあるし、資本主義的な価値に対する自由な視点だと思うので、芸術家を志す者としてすごく響きました。

それから、ユングにたどりつくんです。僕の思想のベースはユング心理学だと思ってます。ユングが普遍的無意識(集合的無意識)を発見するきっかけになったのが、チベット密教の曼荼羅だったそうです。曼荼羅がスイスにまだ紹介されていない時期に、臨床の際、多くの患者たちが夢で見たイメージとして、円や四方向で構成された曼荼羅的な絵を描く。なぜ同じような絵を描くのか。最終的に、その絵はチベットに存在する曼荼羅とイメージの元型が近いという話になり、スイス人の自己の深層のさらに奥に広がる普遍的無意識につながって、チベットの人と共有されるアーキタイプがあるんだと。もう、その壮大な世界のつながりに感激しちゃって。ユング心理学にハマって、チベット世界に憧れたんですよね」

「インドに行きます」プリミティブな世界への憧憬

「高校二年の時、アメリカに行きましたが、すごくつまらなくて。ニューヨーク、フロリダ、テキサス、父の大作が美術館に収蔵されてると聞いて母が送り出してくれたんですけど。アメリカは憧れの国でした。70年代ロックが好きで、エアロスミス、ガンズ・アンド・ローゼズとかのファンだったし。でも行ってみたら本当につまらなくて。多分、日本と価値観があまり変わらないと感じたから。それで、やっぱり第三世界に憧れましたね。インドやチベットに」

「2浪の時、学費が半額免除で入れるということで、新宿の予備校に移りました。予備校の講師から、『夏期講習は君が引っ張っていくんだから必ず出てくださいね』と言われてたんですが、夏期講習の前に『すいません。僕、夏期講習行けないです。ちょっとインドに行ってきます』って(笑)それから、2カ月半インドへ。20歳の頃、それが初めての海外一人旅でした。

僕が最も行きたかったのはインド最北部のラダックという町です。標高3500mの山岳地帯にあって、そこには割と純粋なチベット文化が残ってる。チベット自体は中国共産党が入って、町中に漢字の、中国語の看板がある。そこよりも素朴なラダックに行きたいなと思って。もちろんヒンドゥー教にも興味がありました。そこで現地に行ったら、もう本当に、人々が清らかで、清貧でした。子供は屈託なく笑ってて、ボロを着てても、こんなに笑顔で素敵なんだと。憧れちゃったんですよ。心惹かれて、美しくて」

ラダックの風景(インド)イメージストックより

「旅をしながら、将来について考えました。藝大のデザイン科を受験してた理由は二つあって。一つは立体と平面が受験科目にあったから。平面のみ、立体のみという科もあるけど両方やりたかった。それと、母子家庭であまり裕福な家じゃなかったから、母親の面倒を見なきゃいけない。そうすると、食べていけるデザイナーの道がいいのかなと思っていました。

でもインドを旅してて、『もう、たった一度の人生好きなことやろう』と思いました。本当は、デザインに一切興味なかったんです。それより、美術館で素晴らしい鑑賞体験をすることがすごく好きだった。そして、やっぱり宗教美術に対する憧れがありました。自分が無宗教だからというのもありますが、信仰に対する憧れです。仏像の前にぴしゃって座り込むと、いくらでも眺めていられる。何を見てるでもない、美術鑑賞とはどこか違う体験がそこにはあって、それがすごく好きなんですよね。自分の中の信仰心が現れてくるみたいな。

本を読んで旅することも1種のイニシエーションでした。普段、受験で競争にさらされてるから、いろんな嫌な気持ちがあるんですよね。周りと比較したり。いつも、何かを吸収しなきゃいけないという思いがすごく強かった。そういう、ストイックな生活をずっとしてたんで、同世代の大学生が新宿駅前で看板持ってコンパしてる人たちを尻目に、僕は難しい本を抱えてイライラしてるんです。彼らはブルジョワジー、僕は反ブルジョワジーだと。『大学行ってチャラチャラ遊んでて』みたいな。予備校の近くが新宿2丁目で、なんとなく猥雑なムードが伝わるものだから、それも嫌で嫌で。清貧に憧れていたから、拒否感が強かったですね。1994年。まだ80年代っぽい空気感が残ってた時代です。バブルの残り香というか」

渦巻きで描いた自画像。芸術家になることを決意した日

「インドを旅して2カ月以上経ち、旅も終盤に差し掛かった頃、ゴアという町に立ち寄って、安宿の部屋でコーヒーを入れてました。そしたら、こぼしちゃったんです。床にぶちまけちゃって。たかがそれだけのことだったんですけど、なんでこんなこと失敗してるんだと思って、床を拭くこともできず、ベッドに丸まりこんじゃったんですね。その時、なんか抑うつ状態になってたというか、おそらくずっと一人旅をして、寂しかったんですね。いつも母と妹と3人暮らしで、予備校に行けば友達もいたけど、ずっと一人だったから、孤独に耐えきれなくなってた。2浪して、先が見えない状態でしたし、色んな不安を抱えていたと思う。

それで、しばらくそのままいたんだけど、ふとスケッチブックを取り出して何か描いてみようと思えたんです。鉛筆を持ったら、自然と渦巻きを描き出して、鉛筆の先は紙から絶対に離しちゃいけないというルールが生まれて、それで自分の顔を描いていました。それまでは受験のためにアカデミックな絵を描いてきたから、自画像というと、きちんと鏡を見てライティングして、陰影法で西洋的なデッサンを描くわけです。でも鏡なんかないから、その時の気持ちを描いてたんですね。内的な顔を。

僕は当時、70年代ロックの影響を受けて、ロン毛で、顔も濃いめで、肉体労働もやってるし、サッカーやってたから体格がよくて、なんかヒッピーみたいな、ロックスターみたいな、面白い格好してたんですよ。ワイルドな。でも、中身は違うんですよね。街を歩いてると、鏡に自分が映る。その姿に違和感を持ってた。自分の内側はうじうじ本を読んで、いつも日記帳に誰にも言えないことを吐き出してる。見た目はワイルドだけど、不良ぶるのが好きじゃない。煙草も吸わないし、お酒もほとんど飲まない。女の子とまともに付き合ったこともない。めちゃめちゃ真面目な、無垢な少年。そのギャップに苦しんでた。

そういう、自分が思っている内側の姿を、その時初めて描けたんです。渦巻きで描いてることに癒やされて、描き上がった絵をベッドの反対側に立てかけて、眺めていたらまた癒やされてて。『絵で自分を癒やすことができるんだったら、絵を描いて人を癒やすことができるかもしれない』と思った。その時、『よし、やっぱり芸術家になろう』って決めたんです」

一筆の渦巻きで描かれた20歳の自画像

渦巻きで描かれた自画像は、馬場さんのペルソナをはがし、ありのままの自己に向き合わせてくれた。渦巻き、螺旋は、原初的な、生命の源を表す。循環や再生を象徴し、古来より遺跡や古墳、縄文土器などにも繰り返し描かれたモティーフだ。精神が不安定な時に、渦が自然と生まれて人を癒やし、原初の姿に立ち返らせたというエピソードは、悠久の真理を示すようでもある。渦巻きへの解釈を問うと、馬場さんは「柔らかさ、優しさ、温かさを求めて、生まれたのではないか」と答えた。

「1本の曲線で描き上げたので、直線は存在せず、先端は最初と最後の2つだけ。非常に柔らかな表現だと言えます。心が弱っていたので、自らを癒やすために自然発生的に現れた画法です。デッサンのハッチングという技法は、短い直線を平行に並べて面を表現します。これだと沢山の直線と先端が画面に残ります。直線の先端には痛みを感じますから、それを避けたのではないでしょうか。現在の制作手法程の完成度はありませんでしたが、自浄作用という意味で似たことが起きていたということですね」

作家になる決意をした20歳の自画像は、馬場さんの原点となった。アトリエに額装して飾られており、当時生まれた円環の波を今に伝えている。

アトリエに飾られる20歳の自画像

初めて出会った芸術家。受験をやめて独自の道へ

藝大受験を続けていたが、馬場さんは美術を大学で学ぶことに疑問を抱き始めていた。

「インドから帰ってきて、間に合わないと思いながらもとりあえずデザイン科を受験したんですが落っこって、3浪からまた予備校を移って、そこから油絵に転向しました。でももう、その頃には哲学しちゃってるから、大学というコミュニティに依存してはいけないのではと考えてたんです。やっぱり芸術家はちゃんと孤独であるべきだと。藝大受験って、圧倒的にアカデミックなレースですからね。だから、3浪、4浪からはあんまり合格にこだわらなくなって、油絵習得のために予備校に通う感覚になっていました。もちろん受験はするんですが、大学に行っちゃいけないんじゃないかという気持ちが半分くらいありました。そこから、1次試験にも受からなくなるんです。現役、1浪の時にも1次は受かってたのに、インド旅行した後の2浪、それから油絵に移った3浪、4郎は当然上手くなってるんですが。やっぱり受験に対する熱が冷めていたからかもしれません。

それから、どうするか悩んだんですね。もし5浪するにしても、春からやる必要ないから、もう十分技術はあるし、試験は年に一回。その時にピークを当てればいいだけだから、秋頃からやろうかなと思って。バイトしながら、空いてる時間に絵を描き始めました。初めて受験を目的としない自分の絵を描き始めて、それがどんどん溜まっていったんです。

ある時、新宿のギャラリーの看板を見て、その作品がすごく響いて、入ってみたんです。増山シンさんという方の個展でした。本人がいらっしゃってお話しさせていただくと、ものすごく面白くて、哲学的な方で。その人は、僕がイメージする芸術家像そのものだったんです。

銀座のギャラリーやデパートで展覧会をする人は身近にいました。でも、そういう方々は洋画家、日本画家ではありますが、芸術家とは別物だと思っていました。増山さんとお話しして、初めて芸術家に会ったと思ったんです。へんちくりんで、ギャラリーでわけのわかんない踊りをやってたり、でもそこはかとなく上品で、インテリジェンスがある方で、ファンになってしまって。後日、自分が描いた絵をクリアファイルに詰めて、図々しくも『見てください』と持って行ったんです。増山さんは僕の絵を見て、『ほんとに絵が好きなんだね』と言ってくれて。お話を伺ってると、増山さんも藝大受験をして、結局入れず諦めたと聞きました。その出会いをきっかけに、『あ、もういいや、こっちだこっち』と思って、もう受験はやめて展覧会をやろうと決めたんです」

作家活動を開始。反骨心が生んだダンボールの破壊表現

個展「-reality of CHAOS-」2002年

それからは、アルバイトをしながら作家活動を始める。最初の展覧会は、千駄木にある小さなアフリカ居酒屋の8畳くらいのスペース。知り合いからの情報や、紹介を通じて、徐々にギャラリーで実績を積んでいった。油彩、水彩、アクリル、ミクストメディア、ボール紙、さまざまなアプローチで独自技法を追求し、ダンボールの使用が定着し始める。

《from CHAOS to COSMOS》2002年
「破壊」を意識し始めた頃、ボール紙に描いた作品

「20年ほど制作にダンボールを使ってます。自分の中で破壊衝動みたいなものがあって、それを発散していました。壊すことはずいぶん前からやってて、壊しやすかったんですね、ダンボールが。なぜダンボールかというと、反骨心から来てると思います。やっぱり劣等感が反骨心を生んだと思うんです。受験に失敗したことや、自分を認めてくれない社会に対して。もし藝大に受かってたら、多少の技術を学んで、高い絵の具を使って絵を描いたかもしれない。でも、その環境にはいないから、独自技法でやるしかない。しかも藝大に落ちてるから、どこかでやっぱり自信がない。自分が技術的に劣ってると思ってしまう。だから反骨心から、あえてチープな素材を使って表現したんだと思います」

《しゃがみつくす》2016年

今回のシリーズの前に発表し、2007年から不定期で続けてきた個展「人間発掘」においても、ダンボールを用いている。

「ダンボールの作品は傷で痛みを表現してるんですけど、この時もしんどかった。作家仲間と自分を比較して、鬱々とした日々を過ごしてた時期です。社会にも、自分にも憤りを感じてた。自画像なんですが、タイトルは《しゃがみつくす》。立ちつくすんじゃなくて、しゃがみつくしてる当時の自分を描いたんです」

「影響を受けた作家はその時々で違っていて、ブームみたいなものだと思ってます。20代の頃はベン・シャーン、フンデルトヴァッサー、最近だとアンゼルム・キーファーや、大竹伸朗さんが大好き。キーファーは戦争というテーマや、神話も描いてて、巨大な作品を創れる力量にも惹かれます。美術作品は小さいものを創るのはそれほど難しくない。大作の制作はまず小さなエスキースに始まり、そこから大きい作品に拡大するのですが、バランスを取るのが難しい。トップクラスの公募展が大きい作品で勝負させるのは、その力量を見てる。技術レベルを。大きくしても破綻せず見せるためには、構成理論をしっかり持ってないとできないから。そんな大作を、キーファーにしても大竹伸朗さんにしても創ってる。特にキーファーは重厚な大作が多くて、絵肌の仕上がりが少し粗い、小ぎれいじゃない美しさ、強さがある。絵肌の質感といった点で、直接的な影響を受けてると感じますね」

「ただ、美術作家の誰が好きというのはその時のマイブーム的な感覚が強いと思っています。やっぱり、コリン・ウィルソンや、ユングからの方が圧倒的に影響を受けてる。
芸術家って美術的なステートメントを書くけど、哲学を深めてる人が少ないと感じます。その点には疑問を持ってます。僕は人間として、宗教や心理学、そういうものから自分を掘り下げていくことで作品を創っていきたい。
現代美術は発明合戦だけど、過去に対する相対的な新しさは、全く意味がないと思ってます。ないものを創らなきゃいけないけれど、それを創るために過去にあった美術を勉強して過去になかったもの、相対的な裏返しのものを出すことには価値を感じてません。そうじゃなくて、人間存在として自己と向き合った結果、普遍的無意識に到達した時に何かが生まれて、それがもし新しかったら現代美術になりうるけど、新しくなければ別にならなくていい。この考えは昔から、若い時からそう思ってて、今も変わらない」

《孤独な戦い -死と組み合う男-》(#瓦解 #心で泣く #死と共に)(部分)

相対的な新しさには意味がないと話す馬場さんの考えは、そのまま技法に現れている。
《死と再生のイニシエーション》が鑑賞者を圧倒するのは、さまざまな要素が挙げられるが、その一つは独自技法だろう。破損したダンボールの表面、浮き上がるように存在を示す神話的存在、精密に重ねられた三角形、樹脂の輝きをまとった作品群は、プロセスそのものが作家の生きざまを伝えるものとなった。

本シリーズには4段階の工程がある。二次元に絵を描く「誕生」、絵をナイフで切り刻み、破壊する「死」、破損した絵を再構築し、三次元へと導く「再生」、樹脂に浸し、硬化させる「永遠」。既存技法を踏まえながらも超越したアプローチは、芸術が元来、何の枠組みにもとらわれない生命との結びつきであることを伝えてくれる。

《死と再生のイニシエーション》の制作工程

自らの信仰心を昇華させ、独自の宗教的空間を構築

《死と再生のイニシエーション》展示風景

崩れそうな絵肌。痛みを抱えながら輝きを放つ、気高いイコンのような神々しさ。本シリーズが織りなす神話的で荘厳な世界観もまた、人々を魅了してやまない。天井付近まで掲げられた《三位一体立体曼荼羅》を前にすると、人は自然に天を見上げる。曼荼羅には、エロスとタナトス、拘束と庇護、若年と老年など、両極の象徴が共存し、孤独に死闘し続ける自己の姿と協奏している。

「『教会みたい』とか、厳かな印象を持たれる方もすごく多いですね。作品自体がシンメトリーのものがほとんどですし。意識して創ってるんです。宗教的になるように。今回は特に曼荼羅として、シンメトリーの作品をさらにシンメトリーにレイアウトしたので、より祈りの場を感じさせる空間になっています」

馬場さんは無宗教だというが、こうした宗教的空間、曼荼羅のイメージはどのように醸成されてきたのか。
「複合的なイメージだと思います。強い影響を受けた宗教美術でいうと、最初は薬師寺の本堂で行われた花会式(はなえしき)でした。そこで目にした空間の影響を強く受けていそうです。薬師如来坐像の左右に日光菩薩と月光菩薩が立っています。そういえば、《転生-涙に坐する女神-》にも太陽と月が登場します。左右は逆ですが同じ構図を取っていますね。意識下に入っていたようですが、薬師寺の影響から生まれたのかもしれません」

《転生-涙に坐する女神-》

「インドのハンピ遺跡群や、エローラ、アジャンタなどの石窟寺院。ラダックのへミスゴンパやティクセゴンパなどのチベット寺院。ミャンマーの黄金寺院シュエダゴン・パゴダ、バガン遺跡群。スリランカのポロンナルワ遺跡や、ダンブッラ石窟寺院——他にもアジア中、数多くの遺跡や寺院を訪れました。

ハンピ遺跡群(インド)イメージストックより

7カ月間、作品制作のために暮らしたバリ島ウブドからは、寺院や彫刻ばかりでなく、ガムラン音楽やバリ舞踊など、オダランというお祭りの宗教儀式からもインスピレーションを多く受けていると感じます。《三位一体立体曼荼羅》の全体のフォルムは、結界であるお寺の入口、割れ門に似ていると感じています」

バリ島ウブドでの個展開催(2008年)

個展の様子

芸術と信仰は、太古より分かちがたくつながってきた。元来、祈りを捧げる行為は、見えない存在に畏敬の念を寄せ、自らの霊性、神秘に向き合う自然な行為といえる。無宗教が珍しくない日本において、宗教的儀式、空間との接点がないことにより、内に眠る聖なるもの、信仰心を封じ込めたままの人は少なくないのではないか。そうした人にとって、自らの思念、人生経験から築き上げられた個人的な宗教空間は、既存の聖域を超えて強い力を発することがあるのかもしれない。

母の死。闘病生活、積み重なる劣等感から鬱に

《Queen I》2014年
幼い頃の母の姿


2011年の冬、最愛の母の末期がん宣告を受ける。馬場さんは作家活動から離れ、献身的な介護を始める。8歳の頃から女手一つで自分を育て、私立の一貫校や、藝大受験の予備校に通わせてくれた母。その後もずっと、働きながら作家活動を応援して支えてくれた。

「ずっと母親と一緒に暮らしていて、一度も実家を出たことありません。それまで作家活動してきたけど、母の死が現実に迫ってきたら、美術なんてどうでもよくなって、2年間1枚も絵を描かなかったんですよね。母の世話だけして。母は、とっても真面目な人。真面目で頭が良くて、服飾の専門学校を主席で卒業して、それから出版社に入って副編集長になるまで勤めた。出版社は有名大学の文学部を出た人ばっかりだから、電車で辞書を読んで勉強してたと聞きました。本当に真面目で、無垢な人だったと思う。それから、35も年の離れた父と出会う」

正解のない、雲をつかむような母との闘病生活、迫る死期、将来の見えない不安、積み重なる劣等感、社会への怒り、ネガティブなエネルギーが増大していた。
「三十代後半の頃、介護中から調子が悪かったんです。同世代はみんな活躍してるんですよね。自分だけ地元のスーパーに買い物へ行って、母にご飯作って、病院に連れて行って、旅行に連れてって、そういう生活をしてて。その時、自分はもう作家から退いていたから、仲間の活躍を見るのもつらくて、展覧会も観に行けなかったし、 SNSもミュートにして見ないようにして、劣等感の塊になってました。母の最期を看取った後、ガクンと落ちてしまった。頑張って頑張って、母に愛情を注いで過ごしたけど。最終的にはもう、その時は本当に、全然動けなかったんですよね。しばらく」

「母を介護している頃、友人の紹介で今一緒に暮らしてるパートナーに出会いました。彼女はとても優秀な看護師です。当時は介護を始めて1年以上経った頃で、すでに介護鬱の状態でした。介護のつらさを聞いてくれる友人はあまりいなくて。そんな僕を『馬場さんは立派にナースをやっていますよ』と励ましてくれて、ずいぶん救われました。
母が亡くなった後は、パートナーと 2人で同じ家に住んでます。彼女は存在として、母親を引き継いでくれたと思ってます。作品の女神のモデルで、ずっと僕を守ってくれています。

制作を再開しようとしましたが、 母の介護で2年ブランクが空いてるから、全然描けない。アイデアも浮かばない。どうやって描いていいかもわからない。手も動かなくて、下手になってるし、絵を描くのが怖くなってしまって。 突破口がない日々でした。現実から離れたくて、バリ島へ逃げたこともあります。

ある日、パートナーから『(鬱を)認めた方がいいんじゃない。精神科に行って来たら』と言われたんですね。でも薬は嫌で、精神科のホームページで自己診断したんです。3つくらい。質問が50くらい並んでて、解いていくと、全部、軽度から中程度の鬱と出ました。それで、自分は鬱なんだと自覚して、しばらく休んだんです。絵から離れて、散歩だけする日々を過ごしました。でも鬱だと認めたら、急に気が楽になりました。それまではすごく罪悪感があったんですが、『病気だったらしょうがないか』と思えて、ようやく休めたんです。描くモチベーションもないのに、描かなきゃ描かなきゃってなって、余計自分を追い込んでたから」

パートナーの一言を受け、鬱を自認した馬場さんは、無理して制作に臨むことをやめた。彼女の存在に感謝し、共に歩む道を考え始める。

「彼女は本当に素晴らしい人。今まで結婚を考えたことは一度もなかったんですが、一緒にいたいと思いました。初めてこんなに信頼できる人と出会ったと。バリ島で休んでいた時に決めて、帰ってから彼女にプロポーズしました。応えてくれましたが『条件がある』と。『私はまだあなたの絵を描いている姿をちゃんと見てない。絵描きの馬場さんだったら結婚してもいい。絵を描かないならしない』と言われたんです。
それからずっと作家活動を支えてくれています。彼女が働いていたので、僕は主夫をしながら。少し仕事もしましたけど、大して稼げなくてもずっと応援し続けてくれました」

《水底》

傷だらけの女神が顕現。三角形の涙が女神を突き刺す

《転生-涙に坐する女神-》(部分)

母が亡くなってから絵が描けなくなった馬場さんは、1日1本ずつ線を描き、少しずつ作家活動を再開していく。三年かけて作品を制作し、2017年に個展を開催。現在にも通じる、ダンボールに傷を付け、痛みを表現する作品を発表した。インドのカースト最下層の女性など社会的弱者を描き、刻んだ傷に自身の傷を重ねた。活動を続けていたが、2022年頃、仕事上の人間関係のトラブルなどが影響し、二度目の鬱を発症する。

「一つ前のシリーズに取り掛かっていた時なんですけど、1年間、1枚も 30号(910mm×727mm程度)が描き上がらない。描いても描いてもサインを入れる瞬間が訪れない。その日なんとかやっても、次の日作品を見るとまた違うとなって、そうしていくうちに、どんどん絵が壊れてくる。それで1枚も完成せず、半端な作品が何枚も残っていく。得意だったはずのことができない。自己肯定感が下がりに下がっていく。最終的には、顔に帯状疱疹が出てしまって」

《阿吽 -死と再生のイニシエーション-》(#死の門 #ウロボロス #此岸彼岸)
髑髏に侵食された受難の女神

制作過程を記録した映像作品「死と再生のイニシエーション」(左) 中心に女神を掲げ、作品は完成する

鬱々とした日々が続き、自我の檻に囚われ、自殺願望が膨らんでいく。瀕死の魂を蘇らせるには、納得できる芸術を完成させるしかないと、制作を始める。本シリーズは当初、自身と髑髏しか存在しなかった。髑髏は陽気に死へ誘う。死への願望に動かされるまま、「俺、死ぬ。俺、死ぬ」と唱え、髑髏と自身を重ねて描く。鬱々とした表現ではあったが、納得のいく作品が完成すると、少しずつ自信を取り戻していった。パートナーの支えを受けながら、作品にも変化が生まれていく。

「今回のシリーズを初めて発表する1カ月ほど前、『あ、女神描かなきゃ』とひらめいた瞬間がありました。女神のモデルはパートナーです。彼女は弱い人を見守るのが得意な人だから、僕は甘えてたんですね。死にたい、消えたいと彼女にずっと吐露してしまっていた。そんなことを聞かせてしまって、本当につらい思いをさせてしまったと、その時初めて気づいたんです。申し訳ない気持ちと、感謝を彼女に口頭で伝えました。そしてやっぱり、作品に昇華しようと思い、生まれたのがこの女神です。象徴なので、彼女には似せていません」

《孤独な戦い -死と組み合う男-》(#瓦解 #心で泣く #死と共に)(部分)
男は三角形の涙を流す

作品の随所に見られる三角形は涙だ。雫の形ではなく、尖っている。その先端は、女神に向かっている。
「彼女は気丈な人で、僕が『死にたい。消えたい』とか、すごくネガティブなメールを仕事中に送りまくっても上手いこと無視できるんです。闇に飲み込まれることは一切ない。そういう人なんですが、ずっと一緒に戦ってくれていた。この作品を創っていた時、『あ、そうだ』とひらめいて、『俺が流した涙が女神を突き刺すんだ』と。自分の苦しみ、悲しみは彼女の苦しみでもあった。それを表現するんだと。

それで、『ごめんよ』と思いながら、泣きながら、この三角を貼ってたんですよ。そしたらどういうわけか、普段そんなことないのに突然ガチャッとドアが開いて彼女が入ってきて。早退で帰ってきてたらしく。僕がボロボロ泣きながらダンボールで工作してるから、『何やってんの』となって。僕は『いや、実はね』と言って女神について話しました。そしたら、その時初めて泣いたんです、彼女は。ホッとしたんでしょうね。彼女にとっても長い戦いだったんだと思います」

中央上の長方形の3作品
(左)《七日間の戦い -自我- 》(#雨に隠れる #守護 #一週間)
(中央)《七日間の戦い -女神- 》(#突き刺す涙 #対決 #一週間)
(右)《七日間の戦い -髑髏- 》(#連動する涙 #口封じ #一週間)

「ここで流れる涙は1週間を表しています。顔が7個あって、生きてるか死んでるかわからない1週間を繰り返す。鬱の時の精神状態です。ただ繰り返すだけ。本当に何も進まない、見事に。毎日『死にたい』と流す涙が翌週に雨となって降ってきて、最終的には自分の存在を覆い隠すほどの大雨となり降り注ぐ。初めはそういう物語を描いてましたが、最終的に僕が流した涙が女神に突き刺さるという作品になった。自分の痛みは、彼女の、女神の痛みでもあったと気づいたから。
鬱の渦中にある時は、自分の苦しみにしか向き合えなくて、人を思いやれませんでした。でもようやく『彼女に申し訳なかった』と思えた。この作品を創り始めて、完成した時には、鬱を抜けたと思いました」

悲しみを湛え、どこかあどけない眼をした女神。涙は、支えてくれた彼女を突き刺していた。話を伺いながら、この女神は、水の神ではないかと考えた。涙の矢を受けた女神は傷を負ったかもしれないが、大海のように大きな腕で矢尻を抱き、自らの流れをより微細なものにして、新しい命、清流を生み出していく。そんな神話の続きが想像された。

一次審査通過で号泣。二人三脚でたどりついた現在地

岡本敏子賞の授与を受け、馬場さんは「こんな日が来るとは」と感慨深げに話す。「こんなに自分の作品を信じられる日が来ると思ってなかった」と。そして、長きにわたり支えてきてくれたパートナーに惜しみない感謝を示す。

「多分、ずっと『僕が本当に望んでるところに戻してあげたい』という気持ちでいてくれたんだと思います。その姿勢がすごかったですね。お金のことはそんなに気にしなくていいから、とにかくやりたいことをちゃんとやれと。そんな人は初めてで。
拒絶されてる感じはないけど、共感しすぎることもない。不思議でしたね。いつも見守ってくれて、とにかく強い存在。大作に描いた女神のような、本当にああいう感じなんです。ユング心理学で言う、グレートマザーだと思ってるんですけど。恐ろしい力も持ってる。決して逆らえないですし。

展示も手伝ってくれて、ずっと二人三脚でやってきました。岡本太郎賞の一次審査を通過した時は本当に嬉しかったです。その時は泣いて叫びました。嬉しすぎて。彼女にもすぐ電話して、一次通過を伝えたら、泣いて喜んでくれました。
作品を見てもらえたら、受賞を狙えると自信がありました。作品の強度は絶対にあるし。世の中には完全に新しいオリジナル技法って登場しにくいと思いますが、今回僕がたどりついた制作工程は唯一のものだと確信があったので。ただ、書類審査に通らないと実物を見てもらえないから、この紙でどこまでいけるかという点で本当に苦労したんですね。

紙だけだから、ステートメントを強化しなければいけなかった。彼女が添削してくれるんですけど、もう、厳しいんですよ。ダメ出しされるんだけど、『何がダメかは自分で考えろ』って。超厳しいグレートマザーなので教えてくれないんです。『全然ダメだ。よく考えろ。何を伝えたいかが全然わかってない。やり直し』って何十回もやり直しになって。もうヤダっていうくらいやり直しさせられて、やっと完成したステートメントだったから、本当に感激しました。

10月に一次審査の発表があって、そこから制作する人もいるようですが、僕は6月からこの大作をずっと創ってたんで、もう4カ月経ってました。だからもし一次で落ちたら展示できない。しかも作ってる作品が大きいから一般的なギャラリーには入らないし、どんなモチベーションで完成させなきゃいけないんだろうと思って、すごく不安だったんです」

父権社会への問いかけ。母性が司る新しい世界へ

《転生-涙に坐する女神-》(部分)

この現実社会において、金や権力や学歴を持たざる私がボロボロになってウロボロスの穴に落とされると、無垢で潔白な世界に生まれ変わり、そこではあるがままの私が無条件に肯定されます

大作《転生-涙に坐する女神-》に馬場さんが寄せた言葉だ。本作では「父権的価値が支配する暗黒の世界から、母性が同る白い世界」への転生が描かれている。精神が苛まれてきたのは、社会のヒエラルキー、資本主義、父権的価値観による支配、重圧。傷を負った自らの人生を作品に照射し、浄化するように命の転生を描いた。
馬場さんは父権社会の象徴として父をモデルにした。ただし、それはあくまで象徴であり、父に父権性を感じていたわけではない。一人の芸術家として、その存在と繊細に対話していた。

「初めてまっすぐ父を描きました。父権的な存在として描いたんですが、僕と同じようにボロボロにしてあげたんです。父も社会の中では苦労してたと知ったから。

父は日本ではなく主に海外で活躍していて、大英博物館やアメリカの博物館に高さ2m、幅14という規模の六曲一双の屏風絵が何点も収蔵されている日本画家です。僕は67歳の時の子で、妹は70歳の時の子。そういう年齢なので、僕が10歳の頃、77歳で他界しました。だから、父性がわからないんですよね、僕。一緒にいた時間が短いから、その後、勝手にイメージを更新していて、ほぼ知らない人に近い。憧れの存在ではありました。大作を描く豪快な画家で、作品もすごく豪華で強い作品を残してる。全く繊細系じゃなくて。自分が父から血を引いてると感じながらやってきた。

僕が小さい頃はベンツを乗り回して、英國屋でスーツ仕立ててすごくおしゃれで、若い頃から活躍してたと聞いていました。晩年は出家して、坊主頭でしたね。目黒にアトリエを構えていて、そこで見た光景をよく覚えています。アトリエのエントランスがお寺のようになっていて、自分の宗教観にも通じている気がします。父が得度(とくど)した理由は、観世音菩薩を描くためだと思っています。芸術と仏に対する誠実な姿勢は、とてもよく理解できますね」

《転生-涙に坐する女神-》(部分)
左上の太陽に父を描いた

「最近になって、父に関する新事実がわかってきました。異母兄弟の姉から聞いたんですが、父が40代後半から活躍し始めて、かなり遅咲きだったと。しかも、母からは父が藝大に通って中退したと聞かされてたんですが、姉から、実は藝大の予備校のようなところに通ってたらしいけど、藝大には入ってなかったと聞いて……『え、俺と変わらないじゃん!』ってなったんですよ(笑)やっぱり僕、劣等感があったから、父親に対して。父は藝大に受かって蹴った。僕は受からなかったって。でも、それじゃあ同じじゃん、と。そんなこともあり、最近になって初めて、父とまっすぐ向き合えたんです。

日本画の世界では、未だ藝大を重視する風潮があるようです。『父は海外で活躍していてすごい』と思ってたけど、その理由は日本で活躍できなかったから、藝大出身じゃない父は日本画壇で相手にされなくて、だから海外に活路を求めたんだなと。そう思ったら、父の存在をずっと遠くに感じてたんですが、意外に僕と同じ道をたどっていたと知り、不思議で。作品の中で父を描いて壊すことで、コミュケーションを取りました。

大作の左側の世界は、父権的社会を描いていますが、この父は象徴です。僕が描く父権的社会というのは、現代の資本主義社会、日本のリアル。父は、全く別の精神活動として芸術に向かっていた人で、資本主義とは重ねていません。ただ、自分にとって権威であったことは確かです。彼の存在に押しつぶされていたところはあったんで」

《転生-涙に坐する女神-》(部分)
死と再生を促すウロボロスの穴

長年の哲学と技術が結晶。資本主義に勝負を挑む

生死が循環し、生まれ変わりを促す神秘的世界。興味深いのは、馬場さんは現代生活を送りながら、とても現実的に、ロジカルな視点で本作を完成させたことだ。極めて規則正しい生活を送り、制作に打ち込んできたという。

「僕が制作するのは、大体9時から17時です。パートナーを送り出して、9時からようやく制作に入って、17時になったら作業をやめて、シャワーを浴びて夕食の支度をします。このシリーズに着手してから、このサイクルなんですよね。そういう生活のリズムが全て、作品に関係してると思ってて。前のシリーズの時だと、パートナーは夜勤があったり日勤があったり、自分もペースが乱れて創りづらかったんですけど、このシリーズになってからは生活が安定していますね」

やはり生活リズムが安定すれば、創造のエネルギーを育む土壌も整うのだろう。これほどの大作を完成させたことを思うと説得力が大きい。宗教的空間を構築していく上で、瞑想的なアプローチはあったか尋ねてみると「1ミリもない」という。

「昔の方がありました。昔はエスキースを描かないで、ニュアンスから見えてきたものを描き起こしていくロールシャッハ・テスト的な感じの創り方、直感を頼りに自分の中にあるものを引き出すことを、『人間発掘』というタイトルで何度もやりました。そうした、普遍的無意識の層から発掘するという考え方はベースにあるんだけれども、このシリーズに関しては無意識から何かを引き上げてくることはしていません」

《阿吽 -死と再生のイニシエーション-》(#死の門 #ウロボロス #此岸彼岸)(部分)
デザインされた丸い髑髏の眼

「三位一体の3つの存在にポーズを取らせて、物語を視覚化しています。だからすごく、ロジカルに組み立てられています。デザイン的な観点も含めて。例えば髑髏の目、眼窩の形はティアドロップ型なんですけど、全てまん丸にしてます。こうするだけで、おどろおどろしさ、生々しさが少し消える。そこに三角形の涙のレイヤーが重なることで、さらに生々しさを抑えることができる。グラフィカルなレイヤーを上に入れるとか、そんな効果も考えたので、デザイン的な要素が結構入っていますね。デザイン科を目指したことや、30歳の頃から始めたグラフィックデザインの技術も活かされている。好きでやってきたDIYも。

この大作は大工仕事的な、構造体から創らなきゃいけない作品なので、技術もエネルギーも必要です。大作は、ミニチュアの絵を元に拡大して創りました。元の絵は幅が1m50cmで大作は約5mあるんですけど、この絵を使って全部3.3333倍にしてサイズを測りながら創ったんです。フラットに置ける大きいアトリエがないから、分割して創らないといけなくてすごく難しかった。確実に合うように計算しつくして。会場で初めて大作の全体像を目にできたんです」

《転生-涙に坐する女神-》の元となった作品

《転生-涙に坐する女神-》(部分)
大作を完成させるため、緻密な計算のもと複数のパーツを結合
粗密対比を重視し、他作品よりも小さな髑髏、三角形を配した

母。パートナー。女神的存在から揺るぎない加護を受けてきた馬場さん。物腰が柔らかく、自らも重んじる内的な女性性(アニマ)を豊かに育んできたことがうかがえる。一方で、芸術家としての志は高く、鋭い。TARO賞の授与式では、岡本敏子賞授与時にTARO賞を逃した悔しさをにじませる姿が印象深かった。陰陽、女性性と男性性はバランスだ。作品の絶対的価値は変わらないことは前提だが、コンペという勝負に人生をかけて挑んだから今がある。

「僕が作家になると決めた時の決意って、仏門に入るような気持ちだったんです。俗世を捨てて、結婚もしないし、子供もいらない、仏の道に入るような感じで、一生肉体労働のバイトをしながらみじめな思いをしてでも、自分のやりたい表現を貫くと。『売れよう』という気持ちは全くなかった。ただ、このシリーズになって初めて手応えを感じた。だからこれだったら、と今は勝負をかけてます。今は売れようと思ってるんです、初めて。50過ぎて(笑)これまで資本主義に背中を向けて生きてきたんで、これからはちゃんと向き合いながら。

これから先の選択は、慎重にするつもりです。画廊の選択、個展かアートフェアか、時期や、規模、見せ方など、判断次第で今後が大きく変わると思っています。制作環境も見直して、大作を創れるようにしていきたい。理想とする鑑賞体験を生み出すには、どうしても大作が必要。偶像は大きく、鑑賞者はそれを見上げるという構図は普遍的なものだから。実現への道筋はまだ見えていませんが、次のステージに上がるために最善をつくします。
長期的な目標としては、海外ギャラリーや、美術館での個展ですね。生きているうちに必ず叶えたいです。今回、人生を変えるつもりで挑戦して、この作品を創れたことで何か示せたと思うから、このまま進みます」

馬場敬一/KEIICHI BABA
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1974 東京生まれ

個展
2025「死と再生のイニシエーション福岡巡回展」YUGEN Gallery・福岡
2024「死と再生のイニシエーション」YUGEN Gallery・東京
2024「『人間発掘』とそれにまつわる手記」 gallery shell 102・東京
2023「GOLDEN DAYS」 gallery Q・東京
2020「人間発掘」 gallery Q・東京
2017 gallery 403・東京
2014 galerie SOL・東京
2011「いのちのまんだら」 gallery 403・東京 
2010 f.e.i art gallery・神奈川
2009「破壊と創造のベクトル」 三鷹市芸術文化センター・東京
2009 gallery 403・東京
2008「HUMAN DIG -at the island of gods-」 NEKA 美術館・バリ・インドネシア
2007「人間発掘」 galerie SOL・東京
2006 TAMAGO・東京
2005「ENTRANCE」 gallery 403・東京
2004 space ofbyfor・東京
2002「reality of CHAOS」 ARSギャラリー・東京
2001「balance」三鷹市芸術文化センター・東京
2000 ギャラリー陶・東京
1999 目黒区美術館区民ギャラリー・東京
1998 バオバブ・東京 

グループ展
2026「第29回 岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)」川崎市岡本太郎美術館・神奈川
2025「サロンドパッサージュ」ギャラリーしろむじ・東京
2024「MA→ZI 本気展」FEI ART MUSEUM YOKOHAMA・神奈川
2024「第23回 縄文コンテンポラリー展 in 船橋」飛ノ台史跡博物館・千葉
2024「第59回 神奈川県美術展」神奈川県民ホールギャラリー・神奈川
2023「第22回 縄文コンテンポラリー展 in 船橋」飛ノ台史跡博物館・千葉
2023 「第3回 Gates Art Competition 入選作品展」VR
2022「FLOWER FLOWER FLOWER 2022」あるぴいの銀花ギャラリー・埼玉
2021「ACTアート大賞展」The Art complex Center of Tokyo・東京
2021「Brightly - 2021展」Gallery Q・東京
2021「さいたま百花展」あるぴいの銀花ギャラリー・埼玉
2021「ROOMS」gallery shell 102・東京
2020「Heartwarming 2020展」Gallery Q・東京

受賞
2026「第29回 岡本太郎現代芸術賞」岡本敏子賞
審査員:椹木野衣氏 土方明司氏 平野暁臣氏 山下裕二氏 和多利浩一氏 福田美蘭氏
2019「小松ビエンナーレ2019 第5回宮本三郎記念デッサン大賞展」 佳作
審査員:荒井良二氏 小澤基弘氏 橋本善八氏 町田久美氏 皆川明氏
2019「第15回世界絵画大賞展」協賛社賞・パイロットコーポレーション賞
審査員:遠藤彰子氏 絹谷幸二氏 佐々木豊氏 山下裕二氏
2018「第14回世界絵画大賞展」 東京都知事賞
審査員:遠藤彰子氏 絹谷幸二氏 佐々木豊氏 山下裕二氏

パブリックコレクション
NEKA ART MUSEUM(ネカ美術館)バリ・インドネシア
「Impact of intuition」 180x240cm ミクストメディア
「Night of nyepi」 400x153cm ミクストメディア

展覧会情報

企画展「第29回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)」
会期:2026年1月31日(土)~2026年3月29日(日)
会場:川崎市岡本太郎美術館
開館時間:9:30-17:00(入館16:30まで)
休館日:月曜日
Webサイト: https://www.taromuseum.jp/exhibition.html

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