音楽を聴いていると、風景が浮かぶ。そんな経験がある人は多いだろう。
音楽そのものが放つ世界観、あるいは楽曲を聴いた当時に身を置いていた環境、周囲との関係性、さまざまな情景がないまぜとなり押し寄せてくる。ここでは「音楽のオートマティスム」と題し、1曲に光を当て、その音楽がどのような情景を連れてくるのか記したい。
初回にお届けするのは、NYで結成されたアート・ロック・バンド「Blonde Redhead」。日本人女性のカズ・マキノ(Vo/Gt)、イタリア人の双子兄弟アメデオ・パーチェ(Vo/Gt)、シモーネ・パーチェ(Dr)の3ピース。1993年に結成し、30年を超えるキャリアを持つ。
初期は、ひずんだギター音やカズのささくれだったような声、シャウトが突き刺さる実験的な楽曲が中心だった。孤高の世界を保ちながら、次第に音楽は奥行きが増し、メロディ、空間の広がりを見せる。窒息しそうだったカズの声は、いくらか呼吸が長くなった。氷上の響きを称えたような透明感、危うげな詩情性は唯一無二。リスナーを世俗から遠ざけ、忘れていた宝箱を開けるような、傷口にそっと触れるような、痛々しくも、穏やかなシェルターへ連れていく。
ここでは、2000年にタッチ・アンド・ゴー・レコーズからリリースされたEP「Mélodie Citronique」に収録されている「Chi É E Non É」を取り上げたい。「Mélodie Citronique」には、既発表曲のイタリア語、フランス語によるセルフカバーや、セルジュ・ゲンズブールの「Slogan」のカバーなど5曲が収められ、バンドのヨーロッパのルーツを感じさせる一作となっている。「Chi É E Non É」も全編イタリア語の楽曲。その晴れやかな悲痛さの漂う世界は、比類のない輝きを放っている。Blonde Redheadは長いキャリアの中で数々の名盤を発表しているが、EPに収録された「Chi É E Non É」はライブでも演奏されることが少なく、隠れた名曲といえる気がする。
“Chi É E Non É” 誰であり、誰でないのか
まろやかな低音に始まり、アコースティック音、アメデオ・パーチェの朗らかな歌声が重なる。「あなたは私と違う」「すべての行為はフィクション」。全編イタリア語の歌詞は、内省的だが、抑制され、さほど自棄的ではない。
音楽は、悲哀より優しさを感じさせる。あどけない寓話のような、悲喜劇のような。けれど、そこはかとなく虚無がある。乾いている。幼い自分と手をつないで散歩に出たかのような、秘めやかで親密な空気が漂う。連れ立ってたどりついた庭園には、おそらく愛する人も招き入れない。そこで、空を仰ぎ、ダンスを踊るように声は発せられる。
「誰であり、誰でないのか」
「知っていることを知らない」
「誰を愛すべきか知らない」
4分に満たない楽曲は、終盤のリフレインでリスナーを真っ青な空の下、開けた絶壁へ放り出す。突き抜けるような爽快な青に、心身は解き放たれ、無鉄砲になり、またもそこで叫び、向こう見ずなステップを踏み出す。
読者の方々には、どのような景色が見えるだろうか。
一度目は音を追い、二度目は風景を追って試みた。以下に、一度目のオートマティスムを記す。
[Automatisme]
誰がいて、誰がいないのか
晴れたような音楽
誰もが見えていないのに
瞬時に忘れるのに
透明のひずみ ほしかったもの
見つめ続けることをしても、おそらく眼差しの深度が違ってしまう
緑の変容
立ちくらみのサーカス
かきむしるのは
誰に届くのか
彼方の日はいつの差もなく
雪解けの蜜のままに
遠回りを知らずに崩れていくのみで
澱んでいくものは 遠ざかるものは
ここにいない気のする
それでなお狂う 強い
足元から崩れる
陽気なふりをして
勝ち負けのない2日に
陽気なあなたはいつも傷を片手に
それでも私は
何か 遊び道具を持っているかもしれない
何かが交差しているような気もする
もう一度、出会えるだろうか
あなたは
