「映画愛を破壊されるような、誰も行きつけない愛の峠まで連れていかれてそこから背を押され、地に叩きつけられたような。
やはり、愛を語るのは唇ではなく目だ。指先だ。肉体だ。」

2010年5月。当時まだ存在した渋谷のシネマライズで、『ブエノスアイレス』のリヴァイバル上映を観た直後、私はこのような言葉を書き残していた。

「肌を灼かれてしまったあの日から、私は三度、シネマライズへ足を運んだ。
一度目は、後方で。愛の裸身に全身震えて涙が出た。
二度目は、中央で。音楽と大画面の映像の海に溺れるように。
三度目は、見上げるように。ファイの愛着とウィンの狡さを抱きしめて。」

15年の時が流れ、視界は変わった。映画に夢を見て、愛に打たれ、仕事に忙殺された。そして今、組織のための労働をやめ、ただの個人として生きている。折に触れ、立ち返ってきたその映像を観返せば、当時の感性と現在の私が、地続きであることを教えてくれる。
そんな色褪せぬ力を放ちづける本作について、今浮かび上がる心象を伝えたい。

重い肉体。大地とともに粘り、響きわたるタンゴ

© 1997 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

映像の重力。大地から薄くはがれ、事物に同化していくもの。タンゴの粘りある音楽とともに、泥のような混濁とした物質が立ち上ってくる。大地の奥底の振動と、体の中枢が共振し、ゆっくりと結びついていく。

男性同士であることもまた、作品の重量を高めている。頑強な体が求め合う、冒頭のセックスシーン。事あるごとに怒鳴り合い、体当たりでぶつかり合う二人。男たちは反発し合ったり、引き合ったりを繰り返す。何かの磁力が作用しているかのように、関係は切れることがない。それは不毛なようでもあり、大きな原理を見ているようでもある。ピアソラ、フランク・ザッパ。ねばりのある、南米の重低音の音楽が、二人の間の膠着をより強めていく。

大地の重みは、主にトニー・レオン演じるファイに通じている。一方、レスリー・チャン演じるウィンは、重力から自由なように見える。気の向くまま飛び続ける鳥。『欲望の翼』から、ウォン・カーウァイ作品におけるレスリーの存在は不変だ。彼はいつも、行き先を知らない。

物語はどちらかというとファイの視点で進む。けれど、ウィンの不器用な生態、その、本人もどうしようもない弱点に視点を合わせた時、彼の行動が重層的に見えてくる。

象徴的な場面がある。イグアスの滝にたどり着けない2人。ウィンは地図が読めない。わざとでなく、本当にできないのだ。そこへ、ファイは直線的な怒りをぶつける。

「地図が読めないのか!」

ファイは一見良識ある人間に見えるが、直情的で、割と普通のことを言う。

「来て失敗だ。お前と出会ったことも、死ぬほど後悔してる」

「俺を見下してるのか?自分の方がいい生活をしてるって」

頑固な堅物の発想だ。だが、ウィンにとっては、その堅物さ、頑強な体は代えがたく恋しいものだったのだろう。そして、実はファイも無意識にウィンの弱点を愛しんでいる。途中、ファイが仕事場の厨房で、地図を読むシーンがある。次こそ、自らの手でウィンをイグアスへ連れて行きたいのだ。

重さを味わいながら、微細な粒子はタンゴを舞う

© 1997 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

重量はあるが、物体を成す粒子は極めて小さい。

「返す気はない」

ウィンのパスポートを奪ったファイは、吹っ切れたような笑みを浮かべ、そう言う。ウィンは怒り、部屋を後にする。音を立てて扉が閉まると、ファイは非常にゆっくり、箸に取った米を口元へ運ぶ。その手、口元の動き。身体感覚を確かめ、わずかな重力も噛み締めるようなその動きに、観客の体も震え出す。

粒子は細かなほど活発に動く。水も同様、分子が細かいほど、体に浸透する。ブエノスアイレスの荒涼とした街並みや、病的な空気を醸す二人の部屋から放たれる粒子が、光を焼き付けたフィルムのマテリアルやカメラを回すクリストファー・ドイルの体感もあいまって、観る者に揺さぶりをかける。

粒子は重力に耐えながら、鳴りわたるタンゴのリズムに合わせて舞い始める。ウィンとファインの肉体はその微細さを示すようにゆっくりと流れ、重なり合っていく。愛は固形ではない。どれほど重たくても、流れていく。二人は融合に向かうように、お互いの体に手を回し、粒子の揺れを共有する。

火と水。イグアスの流水が導く摂氏零度の到達点

© 1997 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

愛はよく燃える。ファイにとってウィンは火だ。どれほどほのかな灯し火でも、目が合えば、肌が触れたら、ファイはたちまち点火されてしまう。

幾度目かの再会の夜。ウィンは煙草を吸おうとして、ファイに火をねだる。ウィンはファイを見つめるが、ファイは俯き、目を合わせない。煙草の先端が合わさり、火がともる。ブワッと煙が立ちのぼり、二人の「やり直し」を予兆する。

火の暴走、混乱を鎮める水。けれど、愛の火はそう簡単には消えない。屋上のシーン。ウィンはファイの背に水をかける。その流れを味わい、舐めるようにキスをする。そこではむしろ、水はウィンの唇の温度をより伝える媒体だ。ファイは無反応を装うが、その肌はウィンの火に灼かれている。

それから二人は求め合ったかもしれないが、その先は描かれない。ただし、観客はその続きと思しき姿をポスターですでに見ている。黄味がかった青空の下、地上のような屋上で、転がりながらキスをする二人の男。寸前で断ち切られた余白に、観客はただ思いを馳せる。ウォン・カーウァイは、愛に耽溺する時間を極力抑制して描いている。

二人が愛情を示すのは、相手が眠っている時だけだ。互いの寝顔を見つめる表情には、悦びがにじんでいる。

「ウィンの手が早く治らないよう願った。幸せだったから」

髪をセットするウィンの活発な指。ウィンの手が回復すると同時に、ファイの瞳は曇っていく。ファイはすでに別れを予感している。

イグアスの豪流。大地に落ちる流水。激しいしぶきは蒸気のように空へと噴き上がる。終盤、ファイは一人でイグアスへ向かう。ウィンに点火された体を冷まし、自分の足で歩き始めるために。

ウィンも、二人で過ごした部屋からイグアスのライトスタンドが放つ光を見つめる。ファイが今度こそ去ったことを実感している。そうしてやっと、ウィンは自らファイの中に収まる。かつて、ファイが自分を拘束するように箱買いをした煙草を並べ、ファイがしたように部屋を掃除し、ファイの赤い毛布に体をうずめる。

イグアスは、二人の熱を鎮め、ゼロ地点へと連れていく。長い長い時間、映し出される荘厳な流水。発熱した粒子は、地球の奥底へ押し流されていく。

二人の関係は終わったのか?もう二度と、会うことはないのかもしれない。けれど、地球の中枢へたどりついた粒子は、香港とアルゼンチン、地球の裏側にいる二人をつなぎ続けている気がした。

高鳴る鼓動。「Happy Together」が告げる春光

© 1997 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC. ALL RIGHTS RESERVED

『ブエノスアイレス』の原題は「春光乍洩」。春の訪れ、光に触れた心情を表す言葉だという。流れ続ける人生の中で、光が差し込む瞬間は、それほど多くない。

仕事場で出会った青年チャンとの交流は、ファイが人生に向き合うきっかけを与えた。アルゼンチンの南端にある、世界の果てとも呼ばれるウスワイアで「先輩の悲しみを捨ててくる」と言う後輩に、ファイは新鮮な胸の高鳴りを覚える。

「会いたいとさえ思えば、いつでもどこでも会える」

本作を結ぶ言葉は、これ以上ないほど希望に満ちている。過去と現在、未来、全方向への希望が、その言葉に集約されている。そして、爽快なドラム音を放ち始まる「Happy Together」が、春のきらめきを告げるのだ。

あらすじ

香港から南米アルゼンチンへやって来たウィンとファイ。自由奔放なウィンと、そんなウィンに振り回されっぱなしのファイは何度も別れてはヨリを戻している。これも”やり直す”ための旅だったが、些細なことからまた痴話喧嘩をして別れ別れに。しばらくしてふたりは再会を果たし、怪我をしたウィンをファイが看病しながら一緒に暮らすようになるが……。

スタッフ・キャスト・作品情報

出演:トニー・レオン、レスリー・チャン、チャン・チェン
監督・脚本・製作:ウォン・カーウァイ  撮影:クリストファー・ドイル
1997年/香港/原題:春光乍洩/英題:Happy Together/96分/1.85:1/広東語・中国語・スペイン語/5.1ch

受賞歴

第50回カンヌ国際映画祭最優秀監督賞受賞

TOP