創造は移りゆくものだ。決して一様でなく、気分や体調により、描く世界や筆の動きは変わる。知らず識らず日々目にする風景や、社会の動向にも影響を受ける。そうした創造の変遷を追うことができる展覧会「横尾忠則 連画の河」が、6月22日(日)まで世田谷美術館で開催されている。
本展では、日本を代表する世界的画家・横尾忠則(1936〜)による、旧作の大作1点と新作の64点、スケッチなどが展示され、88歳の巨匠が至った現在地を目にすることができる。
「連画」は、連歌になぞらえている。相手が詠んだ五・七・五の上の句を受け、七・七の下の句を詠む連歌のように、横尾氏は昨日描いた絵画を他人の作品のように見つめ、今日の作品を描くという「連画」の制作に取り組んだ。横尾氏の創造はどのように流れていくのか。その壮大な大河に漕ぎ出でたい。
(楡 美砂)
連画の源泉。集合写真から生まれた《記憶の鎮魂歌》

本展は、元々テーマを定めないという前提で開催が決まったという。2023年に開催された「横尾忠則 寒山百得展」で100点の絵画制作に挑戦した当時、横尾氏は風狂な僧・寒山拾得のように自身が自由人であることにとらわれていた。本展の制作は、「自由というテーマも持ちたくない。テーマなしで進めたい」という思いから始まったそうだ。
創造の源泉となったのは、1994年に描かれた《記憶の鎮魂歌》。本作は、横尾氏が同級生と共に写る集合写真が下敷きとなっている。1970年、作家の故郷・兵庫県西脇市で写真家・篠山紀信により撮影された。西脇市を流れる2本の川、加古川と杉原川が合流するY字になった場所で、故郷、水、Y字という、横尾氏と極めてつながりが深い場所と言える。同級生たちと離れた場所にひっそりと立つ横尾氏は、絵画の中で亀に変身している。

横尾氏は右奥にひっそりと立つ

数十年前の絵画を起点に筆を取った横尾氏は、とりあえず描き始めたという。1作目《連画の河1》は、赤、黄、青を中心に色が重ねられ、どこか幻想的で、虚ろな空気が漂う。筆致はざっくりとしており、寒山百得で生まれた朦朧体の風情もある。本展図録によると、本作は途中から逆さにして描かれ、「珍しくずいぶん時間をかけたけれど、絵から拒絶された、だからこの絵は終わった」と横尾氏は語ったそうだ(本展図録 塚田美紀「芸術家の魂の棲みつくところ」より)。
絵から拒絶されたことが弾みになったのかは不明だが、連画は流れだした。人物、服装、辺りの風景、色彩、輪郭線など、画面は移ろい、変化を見せていく。画家の姿は、画中から消えたり、現れたりする。
そのとき、その日の体調で、筆先から出てくるものを、肉体の想いのままに描いています。(中略)ぼくは意味も目的も結果も無視です。これはぼくの生き方そのものでもあります。偶然や他力にゆだねていく。受動的に運命にまかせた生き方を、描き方に置き換えているだけです。
(本展図録 「連画の河は輪廻の海に注ぐ 横尾忠則へのインタビュー」より)


連画の大河へ。筏に乗って漕ぎ出でる

河原で集合した人々は、やがて筏に乗り、大河に出る。泳ぐ人もいる。かつて同級生だった人物は、著名な人物に変化したり、裸の群像になったりと、メタモルフォーゼしていく。また、本展全体を通じて画風も変わっていく。時に、シャガール、ゴーギャン、ピカソ、アングルなど、特定の画家を想起させる作品が現れる点も見どころだ。


(右)《略奪された女と自転車1》2023年 作家蔵
意気揚々と走る人々が、裸の女と自転車を抱えている。無機質な表情、消された顔。当初背景にあった鉄橋は、三角形や丸などの図形、道路標識に分散し、足元、上空に散る。真昼のように明るかった色調は、異様な空気をかもしつつ、暗い色調へと映り変わっていく。

何をきっかけに創造の流れが変化するのか、誰にも読めはしない。ある日、作品《農夫になる》(右奥)を見た知人から「メキシコでこうした風景を見た」と言われたことをきっかけに、画面は唐突にメキシカンなムードを帯びていく。

多様な要素が混合しながら、河は流れる。アスリート、農夫、メキシカン、僧侶、水夫などが入り乱れて並走する本作は、横尾氏の頭の中に広がるにぎやかな混沌を伝えるようだ。
戦地、タヒチ、事件。脈絡を超越した連画の流れ

《HABIT》2024年 作家蔵(右)の上空に飛行機が飛ぶ

画中の背景に飛行機が飛ぶ作品《HABIT》を受けて、戦争を想起させる作品《1950年》が描かれる。負傷した兵士の背後に浮かび上がる、軍人たちの顔のクローズアップ。腕を吊るす三角形の白い布には「1960.6.23」と小さく記されている。日米安全保障条約が締結された日である。

《1950年》の次に描かれたのは、道化のような笑いを見せる横尾氏。前作で描かれた白い三角形が首元に受け継がれている。帽子を構成する四角形は、当初鉄橋を走っていた電車のメタモルフォーゼか。右上に赤く光る太陽も意味深だ。


(中央)《連画の河、タヒチに》2024年 作家蔵
いつしか連画は暖色が強まり、陽光降り注ぐタヒチへと向かう。ゴーギャンの絵画を想起させる、肌を露わにした女性たち。肌や背景の色は作品を追うごとに変化し、布の役割を果たしていた白い図形もあちこちに浮遊し、様変わりしていく。


(右)《略奪されたシンゾー》2022/2024年 作家蔵
時に、画面には時事的な要素も映し出される。《盗まれたシンゾー》《略奪されたシンゾー》と題された作品では、元首相・安倍晋三氏が描かれた壺や、安倍氏の写真を抱えて走り出す男、それを抑えつけるSPたちが描かれる。横尾氏が眼前にした社会の出来事が、リアルタイムで現れ出ているのか。
異界へと導く壺。大河が流れ出る先とは

展示の後半では、画中に壺が頻出し始める。壺は水と親和性の高いモティーフだ。水を蓄える器であり、滝壺は上から垂直に落ちる流水を一箇所に受け止め、川へと注ぐ。さらに、蛸壺をイメージすれば、壺は棲家として身を潜められる存在でもある。壺の中は謎に包まれている。壺の表には背を向けて座る裸の人物が描かれており、内にこもる内省的な存在を思わせる。中心の一本筋は、何かが生まれる出口だろうか。

壺のそばにも群像が現れる。いつしか壺と人間は一体化し、壺人間(?)となる。彼らが見せる陽気なダンスが楽しい。以降も壺が中心的なモティーフとなり、連画は流れ続ける。

展示風景より

《郷愁》2024年 作家蔵
赤い壺。奥の壺から白い液体が流れ出ている。黒服の人物が杖を手に立ち、フォルムの周りには縮んだ残像のような跡が見られる。老齢者が幼児に還ったのだろうか。横尾氏の作品らしい、苛烈な赤が印象的な本作は、どこか神秘に触れるような緊張感が漂う。
精神世界に詳しい横尾氏は、数多くの著書で死後の世界について述べている。横尾氏による小説『ぶるうらんど』では、終盤で登場人物が若返っていく描写が見られる。本作からはそうした、時空の存在しない世界を感じさせる。
横尾忠則『ぶるうらんど』書評 彼岸から届けられた表現者への挑戦状

《The End of Life Is Moral》2024年 作家蔵
日本語で「人生の最後くらいは道徳的に」と題する本作は、横尾氏が特に気に入る1点だそう。鮮やかな緑と黄で二分された左右の画面。壺に身を隠す存在は、男性と女性か。辺りには小さな壺、丸、三角、四角の図形が舞う。「Moral」の文字の上には、線を消した跡のような筆触も見られ、どこか冗談めいた印象も受ける。

展示風景より
生死宿る海へ。太古から続く悠久の流れに身を任す

《Self-Portrait》2025年 作家蔵
連画の河は、やがて大海へと流れ出る。横尾氏は海についてこんなふうに語っている。
海といえば、母の胎内を想起しますね。海から生まれて、死という次の生へと、つまり輪廻の海へと戻り生死を繰り返します。この間の生は未完です。そして、やがて人は不退転という生死の終結に向かい、永遠の救済を得ます。
(本展図録 「連画の河は輪廻の海に注ぐ 横尾忠則へのインタビュー」より)
胎内に還るという視点では、壺を子宮とも受け止められ、ふいに現れたモティーフの必然性に頷かされる。人は、命は、どこから来てどこへ向かうのか。私とは何者か。横尾氏の連画は、そんな根源的な問いを投げかけているように感じられた。現世に留まらない宇宙的な旅へと誘う本展は、いよいよ6月22日(日)まで。連画の河に身を任せ、太古から続く悠久の流れを体感してほしい。
参考文献:
『横尾忠則連画の河』図録

展覧会情報
横尾忠則 連画の河 会期:2025年4月26日(土)~6月22日(日) 開館時間:10:00~18:00(入場は17:30まで) 休館日:毎週月曜日 会場:世田谷美術館 1階展示室 公式Webサイト:https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00223 |