ヒットを打ち出す作家の傍らには、その立役者がいることが珍しくない。江戸期に隆盛した浮世絵や狂歌本、黄表紙などの出版文化も同様、版元、いわばプロデューサーが絵師の腕を引き出し、大きなムーブメントへつなげた代表例と言えるだろう。中でも名プロデューサーの一人が、喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう 1750〜1797)だ。大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)への注目も後押しし、その名を多くの人が知るところとなった。

東京国立博物館・平成館(上野)で6月15日(日)まで開催されている特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」では、蔦屋重三郎の手がけたビジネスの全貌を観ることができる。国内外で高い人気を誇る浮世絵作品を堪能しながら、仕掛人の足跡を追いかけたい。

(楡美砂)

※会場写真は前期展示(4/22~5/18)にて撮影

江戸の活気、吉原の街並みを体感できる作品群

会場に再現された吉原大門

展覧会に足を運ぶと、初めに出迎えてくれるのが大きな吉原大門。大河ドラマのセットとして実際に使用された等身大の門が設置されている。
蔦屋重三郎(以下、蔦重)は寛延3年(1750)に、幕府公認の遊廓・吉原の地に生まれる。吉原の文化や内情をよく知る蔦重は、出版業でもそれが大きな強みとなった。
始まりの章では、蔦重が育った吉原の風景や暮らしが感じられる作品が多く展示されている。

鳥文斎栄之筆《隅田川図巻》(部分)文化期(1804〜18)東京国立博物館
通期展示

恵比寿、大黒天、福禄寿の三福神が隅田川を上り、吉原で遊ぶ様子が描かれた絵巻物。遊女たちにもてなされる巻末では、鮮やかな色で描かれた遊女たちと、どこか夢幻的なモノクロームで配された三福神の対比が面白い。吉原通いを描いた作品は需要が高かったようで、類似したテーマの作品が複数残されている。

鳥文斎栄之筆《隅田川図巻》(部分)文化期(1804〜18)東京国立博物館
通期展示

歌川豊春筆《新吉原春景図屛風》天明(1781〜89)後期〜寛政(1789〜1801)前期 個人蔵
通期展示

吉原大門からのメインストリート仲之町通り、周辺の高級茶屋を俯瞰でとらえた屛風作品。桜並木を行き交う人々が描かれ、当時の活気を伝えてくれる。花見の名所となっていた吉原の桜は、毎年植樹されていた。春になると植えられ、花見の時季を過ぎると抜き去られていたという。

歌川豊春筆《新吉原春景図屛風》(部分)
花魁道中や客が行き交う春の吉原

歌川豊春筆《新吉原春景図屛風》(部分)
茶屋内の様子を伝える影にも着目したい

展示風景より
吉原の仲之町通りを思わせる、桜の演出が効いている

蔦重は初め、貸本業で生計を立てていたと見られており、出版を手掛け始めるのは安永2年(1773)。吉原大門付近にて、義兄にあたる蔦屋次郎兵衛の店を間借りし、吉原の案内書である『吉原細見』を販売し始める。当時、『吉原細見』は老舗の鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)が中心となり発刊していた。

安永9年(1780)に鱗形屋孫兵衛が発刊した『細見嗚呼御江戸』の巻末に蔦重の名前が確認できる。本書の序文は、福内鬼外(ふくうちきがい)こと、平賀源内(ひらがげんない 1728〜1780)が記している。平賀源内は、薬用の植物や鉱物を研究する本草学者、蘭学者、戯作者として多方面で才を発揮し、江戸で広く名が知れた存在だった。本展では、平賀源内が開発した摩擦による起電機「エレキテル」も展示されている。

平賀源内作 重要文化財「エレキテル」江戸時代・18世紀 東京・郵政博物館
前期展示:4/22~5/18(後期は複製を展示)

蔦重が版元となり、初めて手がけた出版物は『一目千本』。遊女を花と見立てた絵本で、木蓮や山葵などの花が花器に生けられ、遊女と茶屋の名前が添えられた。『一目千本』という書名は、一目で千本の花を目にできることを表している。

(左)礒田湖龍斎筆《雛形若菜初模様 角玉屋内春日野》安永4年(1775)頃 西村屋与八・蔦屋重三郎 東京国立博物館
(右)礒田湖龍斎筆《雛形若菜初模様 丁字屋内ひな鶴》 安永4年(1775)頃 西村屋与八・蔦屋重三郎 東京国立博物館
前期展示:4/22~5/18

蔦重は出版を始めた初期の頃、他の版元と手を組み、媒体物を刊行している。こちらは後にライバルとなる版元・西村屋与八と組み、安永4年(1775)に制作された。従来の美人画の主流であった中判サイズよりも一回り大きい大判が採用され、数は140図に及ぶ。大判が存分に活かされた奥行きのある構図が特徴的で、新しく披露される遊女や場所を示す妓楼名、遊女の世話をする禿(かむろ)などが配されている。

礒田湖龍斎筆《雛形若菜初模様》
前期展示:4/22~5/18

北尾重政・勝川春章画『青楼美人合姿鏡』安永5年(1776)正月 山崎金兵衛・蔦屋重三郎 東京国立博物館
通期展示 ※会期中、頁替えを行います

北尾重政と勝川春章による合筆で描かれた絵本で、版元は山崎金兵衛と蔦重。四季折々の遊女の暮らしが描かれ、合計164名の発句が記されており、吉原をよく知る蔦重の力量が発揮された中身となっている。鮮やかな紅が摺(すり)に使用されており、書画や琴、生花などを楽しむ遊女たちが華やかに描かれる。吉原や贔屓の人物から出資金を集めて刊行され入銀物だったと見られている。

北尾重政・勝川春章画『青楼美人合姿鏡』安永5年(1776)正月 山崎金兵衛・蔦屋重三郎 東京国立博物館
通期展示 ※会期中、頁替えを行います

山東京伝作『箱入娘面屋人魚』 寛政3年(1791)正月 蔦屋重三郎 東京国立博物館
通期展示 ※会期中、頁替えを行います

蔦重は、人脈づくりの得意な愛嬌のある人物であったと考えられている。その人物像がよく伝わるのが、山東京伝作『箱入娘面屋人魚』の冒頭に記された「まじめなる向上」だ。こちらに描かれた男性は蔦重その人であり、「前年、発表した戯作が原因で処罰を受けたが、長い付き合いの蔦屋からの頼みということで執筆してくれたため、ぜひ読んでいただきたい」という趣旨のことが書かれている。
戯作とは、黄表紙などの江戸期に流行した通俗小説のことで、蔦重は『吉原細見』のほか、並行して戯作も積極的に発刊している。

狂歌が爆発的な人気に。喜多川歌麿による繊細な挿絵

蔦重が、特に力を入れたジャンルの一つが狂歌だ。狂歌とは、洒落や風刺をきかせた短歌であり、当時、歌人たちの間で爆発的に流行していた。蔦重は狂歌の会に積極的に出向き、自身も「蔦唐丸」の名で歌を詠み、歌人たちと仲を深め、出版の話を形にしていく。恋川春町作・画『吉原大通会』には、蔦重が狂歌師たちと楽しげに歌を詠む姿が残されている。

当時の代表的な文士・狂歌師に、大田南畝(おおたなんぽ 1749〜1823)がいる。蔦屋から『通詩選笑知』『狂歌才蔵集』『四方のあか』などの狂歌集を続々と刊行し、江戸の文化を牽引していく。

宿屋飯盛撰/喜多川歌麿画『画本虫撰』天明8年(1788)正月 蔦屋重三郎 千葉市美術館
前期展示:4/22~5/18(後期は別本を展示)

天明3年(1783)、蔦重が34歳の頃、出版界の中心地・日本橋通油町に書店「耕書堂」を出店する。この頃から才能を発揮し始めるのが、美術史に名高い喜多川歌麿(1753〜1806)だ。二人は同世代で、蔦重は早くから歌麿に目をかけていた。「喜多川」は、蔦重が養子となった際の氏と同名で、その名が由来となったと見られている。このことからも、両者はビジネスパートナーを超えた親密な関係であったと考えられる。蔦重の後押しもあり、無名の絵師だった歌麿は、狂歌に挿絵を添え、やがて錦絵で続々ヒット作を発表していく。

宿屋飯盛撰/喜多川歌麿画『画本虫撰』 天明8年(1788)正月 千葉市美術館
前期展示:4/22~5/18(後期は別本を展示)

この時期の発表作で特にハッとさせられるのが、歌麿が絵を添えた『画本虫撰』『潮干のつと』。『画本虫撰』は植物や虫の絵が描かれた狂歌集だ。しかし、それが人物以上に生々しく、艶かしい。筍の図は、擬人的に描かれているふうにしか見えず、植物や昆虫は、どこか土着的な湿気を感じさせる。

朱楽菅江撰/喜多川歌麿画『潮干のつと』寛政元年(1789)蔦屋重三郎 千葉市美術館 ラヴィッツコレクション
前期展示:4/22~5/18

『潮干のつと』では、砂浜の風景に、貝の姿が繊細に紡がれている。鮮やかな貝殻の表面、いびつな貝の縁が魅惑的で、さざ波の音とともに何か語りかけてくるようだ。対象が人物でないからこそ、歌麿の稀有な感性、表現力が如実に現れている。なお、作品名の「つと」は土産を意味する。

喜多川歌麿画『歌まくら』(部分)天明8年(1788)蔦屋重三郎 東京・浦上蒼穹堂
前期展示:4/22~5/18(後期は別本を展示)

尻を露わにした女性と男性の接吻のさまが描かれた本作(作品画像は部分)。扇情的な構図。女性も鑑賞者も突き放すかのような、男の冷えた目。指先で語る女と、目で語る男の類まれな協奏。観る者は彼らの関係に深く思いはせることだろう。歌麿の鋭い洞察力を伝える傑作。

喜多川歌麿の代名詞・大首絵の名作が一堂に

寛政3〜5年(1791〜1793)、老中・松平定信により寛政の改革が主導され、出版業にも弾圧がかかる。寛政3年(1791)、蔦重は発行した洒落本の内容が咎められ、財産の半分を没収、発刊した書籍の一部は絶版を強いられた。歓楽地の深川を題材にした『仕懸文庫』を発表した山東京伝は、手鎖50日の罰を受けている。出版規制が強まる中、蔦重は戯作の割合を抑え、学術関連の書物を増やすなどの対応をしている。この頃に、力を入れ始めるのが錦絵の美人画だ。 

喜多川歌麿筆《婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘》大判錦絵 寛政4~5年(1792~93)頃 蔦屋重三郎
後期展示:5/20~6/15

本展の大きな見所の一つが、歌麿の大首絵だろう。中でも、浮世絵の逸品として名高く、後期展示から特別公開されている《婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘》は必見だ。振り返る女性の豊かな表情、翻る袂、繊細に彫り、摺りにより完成した生え際や着物の柄にも着目したい。
本作は、ジャポニスム影響下の19世紀末に画廊を開き、浮世絵愛好家だったエルンスト・ル・ヴェールの旧蔵品で、約43年ぶりに再発見された。浮世絵は一般的に、初摺に近いほど輪郭線がシャープに仕上がり、作品全体に版元や絵師の意向が強く反映されていると考えられている。保存状態が極めて良好な本作は、クリアな輪郭線、鮮やかな色彩を残しており、蔦重のもとで摺られた当時の風情を伝えている。

他にも歌麿の代表作として名高い大首絵の数々が展示されている。いずれも女性の表情やしぐさ、構図が特徴的で、いきいきとその個性を伝えている。

喜多川歌麿筆 《歌撰恋之部 物思恋》寛政5~6年(1793~94)頃 蔦屋重三郎 東京都江戸東京博物館
後期展示:5/20~6/15

喜多川歌麿筆《姿見七人化粧》寛政4~5年(1792~93)頃 蔦屋重三郎 東京国立博物館
後期展示:5/20~6/15

歌麿の絵の魅力は、その人物の内面描写の豊かさ、そして、遊女たちの飾らない暮らしぶりを伝える、親しみやすさにあると言われている。遊女たちの生活や人間性がよく垣間見えるのが、遊女の1日の暮らしを描いたシリーズ作品《青楼十二時》だ。時間刻みで遊女の生活が描かれており、あまり見られない遊女の日常を伝えてくれる。

喜多川歌麿筆《青楼十二時 続 午ノ刻》 寛政6年(1794)頃 蔦屋重三郎 東京国立博物館
前期展示:4/22~5/18

喜多川歌麿筆《青楼十二時 続 戌ノ刻》 寛政6年(1794)頃 蔦屋重三郎 東京国立博物館
前期展示:4/22~5/18

歌麿の作品は蔦屋の独占状態だったが、この頃から蔦屋での出版が減り、他の版元からも歌麿の絵が発表されていくようになる。出版規制が強まり、大首絵への規制も強まる中、一度弾圧を受けた蔦重は他の活路を模索し、美人画でヒットを飛ばし続ける歌麿とは異なる方向に決着したのかもしれない。両者の間に亀裂が生まれたというより、蔦重が各々にとって最適な道を計らった結果とも受け取れる。

喜多川歌麿筆 重要美術品《山姥と金太郎 盃》享和期(1801〜1804)頃 蔦屋重三郎 東京国立博物館
前期展示:4/22~5/18

歌麿は、御伽話を題材とした作品も残している。《山姥と金太郎》は、愛嬌ある金太郎の姿とモサモサした髪と美しい顔が印象深い山姥の触れ合いが、アンバランスでおかしく、微笑ましい。なお、本作の発表時には初代蔦重は亡くなっており、二代目が版元と考えられている。

(左)鳥文斎栄之筆《風流五節句 七夕》寛政5〜6年(1793〜94) 西村屋与八 東京国立博物館
(右)鳥文斎栄之筆《風流五節句 人日》寛政5〜6年(1793〜94) 西村屋与八 東京国立博物館
ともに前期展示:4/22~5/18

絵師それぞれの特徴に着目するのも楽しい。当時、歌麿と人気を二分した作家が鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし 1756〜1829)だ。現代は歌麿ほど知名度が高くないものの、当時は同程度の求心力があった。鳥文斎栄之は、同じく西村屋から絵を発表していた鳥居清長(とりいきよなが 1752〜1815)の画風を受け継ぎ、長身の美人を多く描いている。遊女が季節の行事や芸事に興じる様子など、遊廓の表舞台を華麗に描いた。対象の内面に迫ろうとする歌麿の作風に対し、洗練された女性の美を描こうとする鳥文斎栄之の作品からは、違った趣を楽しむことができるだろう。
なお、歌麿の作品にも、鳥文斎栄之を思わせる、長身の優美な女性が見られる作品もあり、絵師が互いに影響を与え合っていたことが見て取れる。

東洲斎写楽の鮮烈デビュー。早すぎた異次元の才能

(左)東洲斎写楽筆 重要文化財《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》寛政6年(1794) 蔦屋重三郎 東京国立博物館
(右)東洲斎写楽筆 重要文化財《初代市川男女蔵の奴一平》寛政6年(1794) 蔦屋重三郎 東京国立博物館
ともに前期展示:4/22~5/18

東洲斎写楽筆 重要文化財《市川鰕蔵の竹村定之進》大判錦絵 寛政6年(1794) 蔦屋重三郎 東京国立博物館
後期展示:5/20~6/15

歌麿とならび、浮世絵を代表する絵師に東洲斎写楽がいる。とはいえ、知名度は高くとも「写楽が好き」というより、作品のインパクトで記憶している人も多いかもしれない。当時から強いインパクトを放っていたが、その作風は、なかなか民衆には受け入れられなかったようだ。確かに、他の作品と並んで写楽の絵を見つめると、その個性は圧倒的だ。

東洲斎写楽筆 重要文化財《三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよと市川富右衛門の蟹坂藤馬》寛政6年(1794) 蔦屋重三郎 東京国立博物館
前期展示:4/22~5/18

写楽の絵において特徴的な要素の一つに、目が挙げられるように思う。その多くは寄り目であったり、目を見開いていたりと、歌舞伎役者を描いているとはいえ、自然とは言えない。外に向けてというより、自分自身に面を切るようだ。自身の内面と強く呼応するかのような、どこか滑稽な姿は、対象の本質を捉えんとする写楽だからこそ達した、異次元の領域のように感じられる。

東洲斎写楽筆 重要文化財《中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権》寛政6年(1794)蔦屋重三郎 東京国立博物館
前期展示:4/22~5/18

こちらは、端役を描いた作品。写楽は主役級の役者だけでなく、物語の本筋とは関係のない役者も描いている。人物観察を好み、関心を抱いた対象を突き詰めて描く姿勢を持った絵師だったことが窺える。
けれども、当時売られていた大首絵は役者のブロマイドに変わるもの。それを手にしたいと思わせるには、絵師の個性が強烈すぎたと言えるだろう。蔦重としては、写楽の才覚をどのように見ていたのか。

蔦重は寛政6年(1794)、雲母摺(きらずり)の豪華な大判、28枚組を一挙に発売し、写楽をデビューさせた。写楽は覆面画家とされ、得体のしれない画家だったが※、蔦重は当然、ヒットを確信して写楽を世に送り出したはずだ。しかし、時代が早すぎたのかもしれない。
大田南畝による『浮世絵類考』では、写楽について「歌舞伎役者の似顔絵をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまに描きなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む(あまりに真を描こうとし、世に受け入れられず、一年足らずで活動を終えた)」と記されている。

※現在、写楽は能役者・斎藤十郎兵衛の説が濃厚とされている

(左)東洲斎写楽筆《三代目大谷広次の名護屋が下部土佐の又平》寛政6年(1794) 蔦屋重三郎 東京国立博物館
(右)東洲斎写楽筆《二代目嵐龍蔵の不破が下部浮世又平》寛政6年(1794) 蔦屋重三郎 東京国立博物館
ともに前期展示:4/22~5/18

苦渋の決断か、ビジネスとしてのドライな判断だったのかは不明だが、結果として、華々しくデビューした写楽は大首絵から無背景の全身像へ、細版へと格が下がる扱いとなっていく。また、当初の大首絵に比較すると、役者の特徴が抑えめに描かれるなどの変化が見られ、購買層を広げる狙いがあったと考えられている。

そして写楽は100年以上先、ドイツの研究者ユリウス・クルトによる『写楽 SHARAKU』(1910)をきっかけに西洋で評価を受け、今では日本を代表する浮世絵師となった。同時代の民衆からの支持は得られなかったものの、その作品の力強さは現代も色褪せず、蔦重の早すぎた先見の明を示している。

(左)東洲斎写楽筆《二代目坂東三津五郎の曾我の五郎時致》寛政7年(1795)蔦屋重三郎 東京国立博物館
(中)東洲斎写楽筆《三代目沢村宗十郎の曾我の十郎祐成》寛政7年(1795)蔦屋重三郎 東京国立博物館
(右)東洲斎写楽筆《三代目坂東彦三郎の工藤左衛門祐経》寛政7年(1795)蔦屋重三郎 東京国立博物館
全て前期展示:4/22~5/18

蔦重は寛政9年(1797)5月、脚気(かっけ)により48歳で没する。晩年も、国学に関心を示し、本居宣長の本を手がけたり、名古屋の版元・永楽屋(のちに『北斎漫画』を発刊する版元)と手を組んだりと、精力的に活動を続けていた。蔦屋の看板は二代目蔦屋重三郎により引き継がれ、二代目は初代の仕事を継承しつつ、目をかけた葛飾北斎画の狂歌本を続々発刊し、蔦屋の新たな歴史を刻んでいく。

展示風景より

日本橋の街並みを歩き、耕書堂を訪ねる

展示風景より

展覧会のエンディングを飾る展示室では、日本橋の街に構えられた「耕書堂」を目にすることができる。町人になった心地で、ぶらりと街中を歩いてみてはいかがだろう。店の暖簾をくぐり、当時の人たちが本を手に取る心地を味わいたい。

展示風景より

展示風景より

本展を堪能後は、東京国立博物館・表慶館で同時開催されている『浮世絵現代』にも足を運んでみてほしい。こちらは、伝統木版画に魅了された国内外のアーティスト、デザイナー、クリエーター85名が絵師となり、アダチ版画研究所の彫師・摺師と制作した作品が展示される展覧会。絵画、漫画、建築、デザインなど、浮世絵が現代にどのように継承されているかを実感できる内容となっている。

絵師、彫師、摺師の精緻な技術が可能にした名画の数々。複数の人々の感性と技術により芸術が命を得ていく過程は、関わる人々への尊敬がバネとなり、新たな表現が誕生していく過程を眼前にする心地がした。

表慶館で同時開催中の「浮世絵現代」

水木しげる《妖怪道五十三次 京都》2003年

アントニー・ゴームリーの木版画作品
海外作家もアダチ版画研究所に作品を依頼している

横尾忠則の木版画作品

展示風景より
横尾氏独自の朦朧体も、緻密な彫りで表現されている

プロデューサー、絵師、民衆。多角的に鑑賞できる稀有な展覧会

絵師、彫師、摺師それぞれの才を把握し、コーディネートしながら理想の本を仕立てる版元の仕事。編集者、プロデューサー、映画監督などにも通じる才覚が求められると実感した。蔦重の仕事をたどると見えてくるのは、一つひとつの仕事に意図、狙いが感じられるということだ。史実からこれほど伝わるのだから、同時代を生きていれば、その熱量は凄まじいものだったと想像する。その根底には大志がある。時代の潮流をとらえ、世間の声に耳を傾け、まだ誰もなし得たことのない大きな夢を描く。蔦重の残した並外れた気概と功績は、現代を生きる人々の背中を強く押してくれることだろう。

表現で身を立てるには、好きなものを描くだけでは道が拓けないことも多々ある。蔦重が残した足跡を追うことは、作家にとっても有益な時間となるはずだ。当時は版元の采配により、作家の表現領域や報酬が決まっていた時代であり、絵師が納得のいく待遇を受けていたかどうかは定かでない。作家と編集者、あるいはプロデューサー、パトロンなど、作家と雇用主、支援者間における力関係は、全てに該当しないとはいえ、現代まで続いているように思える。
しかし現代ではこの体制に変化が生まれ、インターネットを介して誰もが発信者となり、受け手に直接作品を届けられる時代となった。そんな中、創作活動に編集者やプロデューサーの視点を取り入れられる作家は強い。「自身の管轄でない」と編集者の仕事を切り離す作家は珍しくないし、人によってはその選択が正しく働くこともある。けれども、一度彼らの視点に立ち、社会や世間、自作を俯瞰してみることは、決してマイナスにはならないだろう。

版元と作家、民衆、多角的な視点で鑑賞できる本展は、6月15日(日)まで。創造のヒントを得に、ぜひ足を運んでみてはいかがだろう。

参考文献:
『蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児』図録
『もっと知りたい蔦屋重三郎』田辺昌子 東京美術 2024年

展覧会情報

特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」
Special Exhibition Tsutaya Jūzaburō: Creative Visionary of Edo

会場:東京国立博物館 平成館
会期:2025年4月22日(火)〜 6月15日(日)
   *会期中、一部作品の展示替えあり
休館日:月曜日
開館時間:午前9時30分 ~ 午後5時
*毎週金・土曜日は午後8時まで開館
*入館は閉館の30分前まで
公式Webサイト:https://tsutaju2025.jp/

※同時開催

浮世絵現代
会期:2025年4月22日(火)〜 6月15日(日)
会場:東京国立博物館 表慶館(上野公園)
開館時間:9時30分~17時00分
     毎週金・土曜日は20時まで開館
     (入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜日
※特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」(平成館 特別展示室 4月22日(火)~6月15日(日))、または「イマーシブシアター 新ジャポニズム」(本館特別5室 3月25日(火)~8月3日(日))の観覧券をお持ちの方は、観覧当日に限り本展覧会を無料でご覧いただけます。
公式Webサイト:https://www.tnm.jp/

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