『森林地の人々』は、イギリスの作家トマス・ハーディにより1887年に発表された作品。『森に住む人たち』とも題される。イギリスの架空の小村リトル・ヒントックで生きる人々の人間模様が描かれた群像劇で、あらすじは次の通り。

小村リトル・ヒントックに住む材木商メルベリは、娘のグレイスを教養ある女性に育てようと都市の寄宿学校に通わせる。グレイスは洗練された女性となり帰ってくるが、村で彼女を待っていた婚約者ジャイルズが送る土着的な暮らしぶりとの差を埋めることができない。結果、すれ違いやジャイルズの資産喪失なども重なり、婚約を解消することになる。グレイスは良家の町医者フィツピアーズに見初められ、彼に翻弄されるまま結婚する。しかし、次第にフィツピアーズは村の屋敷に住むチャーモンド夫人と通じ合い、関係を深めていく。その頃、グレイスはジャイルズに対する深い愛情に気がつくのだが、生活に困窮するジャイルズの心身は弱り、病に伏そうとしていた。

ドラマチックな展開で読者を引き込む大作だが、読み進めていると、時にストーリーが浮き足立って見えることがある。物語の本筋と離れたところで、気配のみをかもしながら、事の成り行きを静観する不動な存在を感じられる。どうも、トマス・ハーディのまなざしは物語の中心人物でなく、彼らのドラマに影響を与えるもっと大きな存在に向けられているようなのだ。私見を記しつつ、作者の視点に迫る。

マーティ・サウスと彼女の髪

マーティ・サウスはリトル・ヒントックの材木商メルベリの元で働く村娘。密かにジャイルズへ想いを寄せている。物語の本筋から一定の距離を保つ彼女だが、おそらく作者の創作意図に最も近い場所で生きている重要人物である。物語の冒頭、マーティの髪を目当てにかつら職人が彼女を訪れるシーンで、作者はこう記している。

「この若い娘はしばらく鉈(なた)を下に置き、その右の掌をじっと見詰めていた。それは手袋をはめていないのに、それほど硬くもなくざらざらしてもいなかった。この仕事は始めたばかりで、まだ慣れていないためか、それは赤く、わずかに腫れていた。手仕事をするように生まれついた右手のように、もともと素質がこの部分に現れるものだが、そうした生理学上の慣習を示すものは、その掌の基本的な形状には何もなかった。単に運命というサイコロの一振りが、その娘に鉈を扱う仕事を割り当てたにすぎなかった。それ故に、重いトネリコの柄を握るその指は、幸運にもそうした機会に恵まれさえしたならば、巧みにペンを運び、あるいは弦を掻き鳴らすこともできたかも知れなかった。

その顔には、孤独な生活が育む豊かな表情があった。(中略)歳のころは十九か二十そこそこだが、余りに早い時期から思い悩む境遇にあったので、うつろい易い若い表情に、すでに老けた表情が刻まれていた。そんな訳で、決して美しいとは言えなかった。ただし、とりわけ優れたものを除けばであるーーそれは髪の毛であった。その豊かさは、手に負えないほどであった。その色は、ここから炉の明かりで見る限り、大雑把にトビ色ということができよう。しかし、昼間、注意深く見詰めれば、本当の色合いは稀に見る美しい栗色に近いことが分かる」

ここでは、人物像がかなり饒舌に描写されており、マーティに注がれる作者の愛情が垣間見える。

身分、家庭環境なぞはただの入れ物にすぎず、先天的に授けられた品位を穢せない。それゆえ、地位にすがる人は、無自覚に原生の品位を手に入れようとする。

「私の髪は私のものよ。それを手放すつもりはないわ」

美しい髪は富裕層から目をつけられ、取引の対象となる。マーティは、かつら職人から差し出された金貨を拒絶し、気高く言い放つ。しかし、愛するジャイルズがグレイスと婚約関係にあると知ると、その関係が崩れる方へ傾くよう、一縷の望みを託し髪を切る覚悟をする。彼女が人知れず献身するのは、純真な愛のみである。

チャーモンド夫人の大振りな髪に、マーティの髪が編み込まれている。その髪を賛美するグレイス。

「彼女の髪は、あんな風にすると、とてもお似合いだわ。あれほど美しいのは、今までに見たことないわ!」

グレイスが隣に立つマーティの髪の輝きに気づくことはない。ここで、彼女が「気づかない人」であると示さんとする作者の意図は明らかだろう。

マーティはそっけなく答える。

「えぇ、私もよ、お嬢さん」

マーティ・サウスの父と大木

「木の格好が、亡霊のように父には取り付いているらしいの」

マーティは家の庭に立つニレの大木を指して言う。

「あの木のせいさーーあの木が、やがて俺の命を奪うんだ」

病床に伏したマーティの父は、自室の窓から見える大木の存在を恐れ、毎日のようにこう繰り返す。

「これは希な病気だね」

マーティの父の狂信的な姿を見て、医師フィツピアーズは大木を諸悪の根源ととらえる。

「あの木は切らなくちゃならん、でないと、命の保証はできんよ」

そうして、大木はジャイルズの手により切り倒されることになる。ところが、マーティの父は大木の消失がわかると卒倒し、そのまま息絶えてしまう。

大木は、彼の体とつながっていたのだ。大木の樹液は、彼の鼓動に合わせて脈打っていた。大木は、誰より彼を知っていた。幼い頃の笑い声や、仕事ぶりや、悪行や、娘に寄せる愛情や、病の苦しみや、深夜に響きわたるいびきを、知っていた。彼が大木に抱く恐怖心は、今まさに終えようとする、命への恐怖とも読み解ける。大木と彼は、死を共にしたのだ。

しかしながら、自然とつながりを持たぬ医師にはそれがわからない。大木をなぎ倒す治療法しか、見出せないのである。

「ちえっ、僕の治療で殺しちゃった!」

メロドラマの完成を支える森林地

「家柄の良い」「洗練された」人々は、自然の手厚い助けを受け、メロドラマを完成させていく。

医師フィツピアーズは、妻グレイスの馬にまたがりチャーモンド夫人の元へ向かう。妻の馬がなくては秘めた関係を守れないこと、その馬はグレイスを想うジャイルズからの贈り物であることは、無意識のうちに切り捨てられている。

森林で遭遇したグレイスとチャーモンド夫人が見せる一幕も印象深い。二人はフィツピアーズをめぐる口論の末に別れた後、それぞれ森林の奥深さに翻弄される。グレイスこそ山道に慣れてはいたが、子供の頃に来ていた場所も未開の地と化し、いつしか方向感覚を失ってしまう。暗がりの中、風が吹きすさぶ森林地をさまよい、郷里の自然に恐怖を覚えるグレイス。遠くに現れた人影に胸をなでおろし、駆け寄った先にいたのは、先ほど口論をしていたその人だった。二人は打って変わって再会に感激し、肌を寄せ合い、暖を取る。雄大な自然を前に、生ぬるい私情のもつれはあっけなく屈服したのだ。取り乱したチャーモンド夫人はこう繰り返す。

「道に迷ったの、道に迷ったのよ。まぁ、本当にあなたなの。あなたでも、誰でも、会えてとてもうれしいわ。別れてからずっと、私、あっちへ行ったり、こっちへ来たりで迷っていたの。それで、怖くて、惨めだし、その上、くたくたで、もう今にも死にそうだわ」

こんな場面もある。ジャイルズを失い悲嘆に暮れるグレイスと、グレイスへの愛情を再確認し、関係の修復を目指すフィツピアーズ。二人が待ち合わせていたある夜、山道に仕掛けられた人獲り罠に残るグレイスのスカートを見て、フィツピアーズは青ざめる。その後、現れたグレイスが無傷であることを確認すると、彼の愛は燃え上がる。グレイスもまた、その熱情にほだされる。

「君は死んではいなかった!ーー怪我もしていない!あぁ、神様ーー神様、感謝します!」

ここでも、「人獲り罠」という土地に根ざした人たちの原始的な罠が演出を利かせている。自己愛、自己投影の枠を出ない衝動に身を任せる彼らを、自然はどこか冷めたまなざしで眺める。

こうした例は、枚挙にいとまがない。

物語の大半はグレイスを中心に描かれるものだ。しかしながら、冒頭のマーティ・サウスとかつら職人とのやりとり、終盤の材木商たちの会話、さらには結末にマーティ・サウスの告白が描かれることで、視点は意図的にずらされる。トマス・ハーディの筆致は一貫している。

ジャイルズと精霊

「それは低い呟きだった。初めは誰かが話をしているようだったが、次第に、一人の声が、さまざまな声に聞こえるのだと分かった。それは、水が流れたり、ツタの葉が石に擦れたりといった、深い秘密の場所、つまり無生物の自然界から、われわれが時々聞き取れるような、終わりのない独白だった。しかし、だんだんと、その声がウィンタボーン(ジャイルズ)のものと、彼女は確信した」

死を間近にしたジャイルズの唇から溢れ出るうわ言。ジャイルズの生は、森林の精霊に讃えられている。生死の境で、ジャイルズは自然の神秘に触れ、魂を解放していく。

「グレイスはジャイルズのことをよく知っていたけれども、実際、彼女の臆病な道義観は、今まで、彼の騎士道精神を侮っていた」

与えられることに慣れたグレイスは、ジャイルズに忍び寄る死を嗅ぎ分けることも、精霊の声を察知することも、できない。

マーティ・サウスの愛

「あの娘はいつも一人ぼっちじゃ」

源泉にある希求は、深い愛と孤独によって、すでに鎮圧されている。

愛を、奪わない。求めない。示しもしない。

ただ、捧げ続ける。

「付き合ってください」「結婚してください」

現代人がたやすく口にする言葉の欲深さ。

グレイスがジャイルズの墓参りに現れなかった最初の夜。墓前で囁かれる言葉。不在を受け入れ、愛はさらに生長する。

「ねぇ、私の、愛しい方」

物語は、マーティ・サウスの至上の告白により幕を閉じる。自然と交感する存在の、屈強で揺るぎのない生命。純真さ。

トマス・ハーディは本作に登場する対照的な生を克明に描くことで、自然の在り様を浮き彫りにした。

自然と教養

フィツピアーズに象徴される、閉塞的な、哲学と芸術。教養と呼ばれるもの。人の間に限られた慰みごとは、越境性が知れている。本棚に仕舞われた、ちまちまとした知識や虚飾は、神の分身により簡単に身ぐるみをはがされる。

森林地は、教養を得た人に、自滅あるいは自立に向かう岐路を暗示する。足裏と土の交わりを知らずに育った人の知性は、自己愛と怨念が渦巻く地下室へと下降し、時に諸悪と懇意になる。

学者、芸術家にもまた、警告は突きつけられている。

出典:『森林地の人々』作:トマス・ハーディ 監訳:藤井 繁(図書出版 千城 2002) 

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